・ここでは、伊福部先生が、文化タイムス1954年1月18日発行第一号に寄せた文書を伊福部家の御諒解の許、全文掲載致します。
・現代の音楽について、名著「音楽入門」と同様の語り口で、伊福部先生の考えが述べられております。御高覧下さい。
 
・この文書と同じく、「パラ音楽入門」とも云うべき文書が多くの雑誌媒体に残されておりますので、今後それ等を随時掲載して参ります。
 
・原文は縦書きですが、横書きに改めさせて頂くと同時に一部体裁を改めさせて頂きました。

邯鄲の歩

 
伊福部昭

 

 私は荘子の秋水篇にあるこの話が好きである。趙国の都の邯鄲の人は歩くことが非常に上手で、又みやびやかであると言われていた。これを伝え聞いた燕国の少年が邯鄲に歩行代を学びに行き、修行を終えていよいよ帰国することになるのであるが、習つた歩きかたは身につかず、又自分の生来の歩き方は忘れてしまつたので、仕方なく匍匐つて帰つたというのである。
 

 又これと似た話であるが張芸叟の詩に、鳥類の話法の奥義をきわめたと自負する男が、其等を友として暮そうと考え、深山にこもるのであるが、やはり本物の鳥にはかなわず終生一口もきかずに死んでしまつたというのである。

 
 どちらも自己の立場を忘れ、伝統と誇りを失い、外来の文化に無批判に溺れるたとえを笑つた話である。此の様に、寓話化されると誰にでも其のおかしさに気付くのであるが、身近かな事柄として起ると、得て其のおかしさを見落し勝ちなのである。

 
 殊に洋楽と呼ばれる世界ではこの様なことが珍らしくない。声楽者は何んでも外国語で歌うことを本格と考え、作曲者は自己の民族を忘れ西欧風に真似ることが正統であると思い込んでいるかの様である。又、一般には教養とは其の伝統を忘れた度合を示す尺度となつているかの感さえある。しかし、此の様な歴史は我々ばかりのものではなかつた。十八世紀ピヨトル大帝が西欧に対しロシアの門戸を開いた時、ちようど此の様な状態が現われた。生のままの外来の文化が流れ込み、男は髭を落し、婦人はフランスの服をまとつた。又ロシア語は、此等紳士淑女の口にすべきものではないと考えられた。

 
 音楽にあつても、民族的遺産はすべて下級なものと見なされ、多くの外人教師が招聘きれ、作曲家は西欧風に作曲することに没頭した。ボルトニアンスキイ等によつて、ロシアの優れた聖歌がイタリアまがいに安価に改悪された時、当時の教養人は此れに賞讃の拍手を送つたのであつた。しかしやがてプーシユキンの出現によつて会話にも堪え得ない程下級なものと考えられたロシア語によつて優れた文学が生れ、又グリンカやムソルギスキーによつて燦然たるロシヤ音楽が誕生したのである。此の様に本来の姿に立ち戻つた時、以前の外来の影響による贋の文化は跡形もなく消え去つてしまつた。
 

 我が国でも、一時我々の伝統が見直され始めた時機があつたが、敗戦によつて此の機運は消えてしまつた。特に、戦後重要な支配を振つたアメリカという国が歴史も浅く、文化的に何等独立した伝統を持たないために、これ等を無視して、只に前進することが近代的なのだという風な考を我々に植えつけたのである。伝統の浅い国にあつて、此の様な態度がとられるのは、いわば一種の運命的なもので止むを得ないが、国力がどうあろうと、長い伝統を持つ我々は此の様な見解に染まる必要はない。又一方、伝統の意義は認めるにしても、伝統として受け取るに足る音楽が無いという風な意見に出会うことがある。和声も無くポリフオニイも無いではないかと。しかし、此の見解は音楽というものの認識の仕方、いわば音楽のカテゴリー其のものが既に欧化されてしまつているのである。
 

 此の様な考え方にある内は、いかに外来音楽の奥義をきわめたと自負しても、深山にこもつた男のごとく、終生無言の運命を負わされるかもしれぬ。

 

1954.1.18.mon. 文化タイムス第1号.p.2.