転向10年
伊福部昭
科学に多少とも関連のあった私の最後の仕事場は帝室林野局北海道林業試験場であった。そこでは、気象観測用に建てられた別棟を占居して、戦時科学研究という名目で木材の振動と強化木の実験をしていた。当時の主要な関心は敵軍の木製飛行機であった。が、未だ何んの成果らしいものも得ないうちに終戦となり、私は突然血を吐いて倒れた。医者は結核だろうといい、また過度の電波実験による毛細管の異状だともいった。何せ生命が最も軽んぜられた時代なので、医師も無責任なものであった。
やがて、アメリカ軍の調査官が研究室にやって来た。当時、私達の使用出来る試薬の量は1日フラスコ1杯がやっとであったが、調査官は平然として、1日何噸の試薬を用いていたかと質問した。私は甚だ自尊心を害して、この問には答えなかった。その他に何を質問されたか、今は覚えていない。この自尊心の喪失と病気が一緒になって、そのような仕事を続けるか否かに迷っている時、マックアーサーの指令で航空機に伴う一切の仕事が禁止されてしまった。これは決定的なことであった。
私は、科学と同時に音楽を創ることにも心を惹かれていた。その頃までに書いた幾つかの作品はパリ、ボストン、ローマ等で演奏され、また国際コンクウルなどに入選したりした。音楽は私にとって、どこまでも余技であったが、これが誤解を生み、昇級も甚だ悪く、ボーナスの率もいつも最低であった。このようなおぼつかない状態を続けるうちに、戦後の変動は日増しに甚だしく、追い詰められた私は音楽の世界に逃げる以外に方法がなくなってしまった。
上京して10日程すると、未だ面識のなかった小宮豊隆先生から呼び出しがあり、上野の作曲科で講義をするようにとのことであった。先生は私の作品を何処かで聴かれたことがある由で、無資格の私に講義を一任した。その頃から映画の音楽も担当することとなった。
最初、科学を志した私は『飽くなき厳密』という語を座右銘としていた。これは、ダ・ヴィンチの座右銘で、またポール・ヴァレリイもこれを掲げていたが、科学者にして芸術家だったこの2人が、若い私の理想であった。
処が近年になって、この言葉が却って仕事に或る限界を与えるのではないかと疑うようになった。いわば、いつもアルコールで消毒している医師の手のように、清潔ではあるが、何かカサづいて人間的情感に欠けるうらみがあり、それが自分の仕事に反映しているように思われてならない。真の秩序の中には、エントロピー増大の法則というか、一種の無秩序性の秩序が必要なのではないのだろうか。
或は血のせいもあって、東洋の思考に還ったのかもしれないが、現在では老子の『大成は欠けたるが若(ゴト)し』という語が私の座右銘である。
転向10年にして科学精神から遠い処に来てしまったものである。
作曲家・北大農卒
科学雑誌「自然」 Vol.12, No.9, p.40, 1957.9. 中央公論社 東京
▲若き日の「科学者」伊福部先生
(北大演習林時代と考えられる)