・ここでは伊福部先生が、レコード芸術誌1962年7月号に寄稿したものを、伊福部家の御諒解の許、全文掲載致します。
・この文書は、先日タワーレコード様で復刻がなされました、1962年発売のレコード「日本狂詩曲/交響譚詩」(日本現代作曲家シリーズの1つ)の発売に併せての文書と考えられます。自作のレコードが発売されることに対するお考えを率直に述べられています。御高覧下さい。
   
・転載に際し、一部体裁を改めさせて頂きました。

私 感 

 
伊福部昭

 

 日本狂詩曲を書き始めたのは私の十代の終りなので、もう三十年程も前のことになる。
当時、日本は独逸古典一辺倒で、私達の作品が日本の管弦楽で演奏されるというようなことは殆んど考えることも出来なかった。だから、初めから、負惜みもあって、当時の日本には無理な大きな編成を採ったのであった。


 幸い、一九三六年春、ボストンで初演され、それ以来、楽譜が出版されたこともあって、方々の国でいく度か演奏された。然し、私は一度も聴いたことがなく(、)この度初めてその音に接することが出来た。
 シェーンベルクは「月に憑かれたピエロ」の脱稿後、十六年たって初めてその初演に接し、尠なからざる当惑を覚えたと伝えられているが、三十年も経つとその度合は更に大きなものとなる。


 唯、私は、このレコードを聴いて、ふとカーライルの言葉を思い出した。「本当の恋文とは何を書くのかも判らずに書き始め、また、何を書いたのかも判らずに書き終えたものだ」と。本当の恋文かどうかは措くとして、当時、カーライルがここにいうような心境に近いものであったことだけは思い起すことが出来る。


 それはともかく、私達の作品がステレオなぞ(と)いうもので聴くことが出来るようになったのは今昔の感に堪えない。私が作品を書き始めた頃、世間の一般は音楽家というものを軽く蔑視し、時に反感、時に憐憫の眼差しで迎えたものであった。然し、時代は変った。この度の録音で、私は数回の練習に立ち会うことが出来たが、始終演奏家の示して下された大きな好意と誠意とには真に感謝に堪えないものがあった。このことは出来上ったレコードからも明瞭に窺うことが出来る。


 交響譚詩は戦前SP時代に出たこともあるがステレオとなってその効果も全く異なったものとなった。今、私の手許に昨年ニュージーランドで演奏されたテープがあり一年近くも経っているのであるが、何か蟠りのようなものがあって未だ聴いていない。作品が国籍を異にした人々によって演奏された時に起るあの歪みに大きな興味をもっているのと同時に多少の懼れをもっているためなのである。


 このような点から見た時、吾々の作品は出来れば日本の演奏家によって再現されるのが最も望ましいはずである。この度、これが実現したばかりでなく、レコード化されて何時でもこれに接することが出来るようになったことは真に慶ばしいことだと思う。 

 

レコード芸術 Vol.11, No.7, p.108, 1962.7. 音楽之友社 東京

▲題字は伊福部先生筆