映画音樂の出来るまで
伊福部昭
映畫音樂の出來上るまでに就て何か書く樣にとの註文である。
映畫の音樂が完成するまでには、作曲と演奏と錄音の三つの過程を經なくてはならない。此等は相關的なものであつて、最後の効果はこの三者の協力如何に關つてゐるものなのであるが、こゝでは便宜上これを分離し其の順を追つて一つ一つに就て極めて簡單な說明を試み樣と思ふ。
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所謂音樂映畫と云ふ樣な特殊なものを除けば、映畫音樂の作曲と云ふ仕事は劇の台本が出來上つてからこれに參畫するのが一般である。最初に何處に何の樣な音樂を入れるべきかと云ふことに關して、演出家との打ち合せが行はれる。これは台本が同一であつても演出家と音樂家とが夫々異つたイメージを持つことがあり得るからである一例を掲げれば「夕暮の丘の上」と指定した甘い場面があるとする。そして、其處に音樂を使ふことに決定をみたものとしやう。其の時作曲家は夕暮の遠い丘を二つの黒いシルエットが靜かに歩いて居ると想像するかも知れない。又一方演出家は、夕雲を背景として二人の抱擁をクローズ・アップで撮るかも知れない。この樣な差異があれば、音樂は當然其の性質を變へなくてはならない。映畫にあつては其の場面が持つ雰圍氣の外に、カメラと撮される對象との距離の大小が非常に其の付隨音樂の性質に影響を與へるものなのである。說明するまでもないと思はれるが、同じ雰圍氣でも對象が遠く客觀出來る場合と、体溫を感じ得る程までに近い場合とはでその感動の形態が異るのである。又、台本では當然音樂が必要であるかに思はれる個處でも、演出の如何に依つてはその必要がなくなる場合も起り得るし、又其の反對の場合もあり得るものなのである。この樣な理由に依つて、演出家との詳細な討議が必要なのである。
だが、茲で音樂の立場から一つの辯解をして置かなくてはならぬことがある。又甘い場面の例を掲げて恐縮であるが、極く會話の少ないラヴ・シーンの樣な場合、新しい外國の映畫では餘り音樂を用ひないのが普通である。その方が遙かに洗練されて居るし、出來ればそうありたいのであるが、現在の日本ではこの手法を用ひることが困難である。と云ふのは、フヰルムが餘り良質でない爲か、或は他の原因に依るのでもあらうか、兎に角現實音の少ない靜かな場面に音樂を使はないと細い雨の降る樣な雜音が聽へて來て劇進行の興をさますこと甚しいのである。從つて、音樂家は大いに氣が進まない場合でも、何かそれらしき弱い音樂を背景に使はなくてはならぬ結果となるのである。この樣な機械的な雜音と云ふものは、吾々の聽覺を或る一定のもの、―この場合は弱い背景音樂、―に向けた時には意識されなくなるものであつて、其の現象を利用する譯なのである。だが、此の樣な努力は簡單に音樂家の感性が舊いと云つて片づけられるのが落ちなのである。この樣に現在の日本では機械的な缺陷を補ふために自分の審美感を歪めなくてはならぬ場合が其の他にもあるのである。
話は少し側にそれたが、この樣にして兎に角何處に何の樣な音樂を書くべきかと云ふ大体の案が出來上るのである。だがこれだけで音樂を書き初める譯には行かない。と云ふのは、演出家の言葉から受けた感じが装置、照明、カメラを通過すると、其等の影響に依つて隨分異つたものとなることがあるからである。そして、吾々はこの出來上つた最後のフヰルムの印象に依つて音樂を決定すべき筈のものであるから其れを見てからでなくては案を決定することは出來ない。勿論、場合に依つては畫面だけではどうしても其の雰圍氣を出すことの出來ぬ樣な時音樂が其の畫面の傳へたいと望んで居る處をくみとつて此れを强調することもあり又畫面とは全然異つた音樂によつて逆に其の効果を狙ふ場合もあり得るのであるがこれとても、兎に角畫面を見なくては物にならない譯である。この樣な必要から、一場面のフヰルムが完成する毎にその部分の試寫が行はれる。この試寫を普通ラッシュと呼んで居るが、これを見てはじめて仕事にとりかゝり得るのである。然しこのラッシュは暫定的なものであつて最後の編輯の時には短く切られたり、中間に全然別のものが挿入されたりするのが普通であつて
、音樂の所要時間と最後の形とは映畫全体の構成が完了するまで不明なのである。
そうして現在の日本ではこの最後の構成の完了から錄音までに四・五日位しかないのが普通であつて作曲家は此の間に必要な音樂全部を書き上げなくてはならない。一本の映畫には、長短とりまぜではあるが少なくも二十曲以上の管絃樂曲を要するものである。これは非希に無理な仕事であつて、この作曲時間の不足と云ふことは何んとか改善すべきものだと思ふ。
音樂を必要とする場面は、其れに要するフヰルムの長さを呎(フィート)單位で計る。映寫されるフヰルムは二秒間に三呎移動するので此の比率に依つて時間を算出するのである。因に、フヰルムの駒は一秒間に二十四ヶ移動するのであるがこれは誰でも知つて居る樣に斷續的に動くものであるから音はこの樣な方法では錄音も再生も不可能なのでこの斷續的に動く個處から二十駒のループに依つて斷續の平均速度で運動する個處を得、其の場所で錄音再生が行はれるのである。從つて、畫面の側について居る音は正密には其の畫面の音ではないのである。以上の計算に依つて得られた秒數の中で、何の樣な音樂を何の樣にして始め何の樣にして消え去るべきかと云ふことは、全然作曲家の責任である。誰でも知つて居る樣に、映畫にあつて音樂は或る事件と同時に始まることもあり又先行遅行することもあるのであるが、最近のアメリカのものでは、一カット位前から始まるものが一番に多い樣である。これは、聽覺が音樂から或る雰圍氣をくみとるのには視覺が畫面から何かを讀みとるのよりも一般に長い時間を要するものであり、又畫面と音の變化とが同時に起ると、變化の度合が强すぎて作品全体の構成が搖ぐと考へられるからである。
けれども、畫面が或る雰圍氣を釀してから後、音樂が靜かに入りこれを强調すると云ふ方法も亦別種の効果を持つものである。
此等手法の選擇は、場合に應じ全体の均衡を考へて行はれるべきものである。唯、古い演劇にあつた樣に人が死んで倒れる同時に銅鑼がゴーンと鳴つて悲しげな笛がピローと始まるあの同時性は此の頃餘り用ひられなくなつた。これは、心理的には最も妥當なものであるが、餘りに妥當であり過ぎる爲か又亂用に過ぎた爲でもあらうか兎に角、現代の人達の感覺にとつては寧ろ滑稽な効果とさへなるものである。
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次は演奏であるが、これは錄音を離れては考へることの出來ぬ程密接な關係に置かれて居るものなのである。
トーキーの音は、マイクロフォンを通つた音が一度光に換へられ、その光が又逆の行程を經て音に轉換され、初めて吾々の耳に達するのであるが、其の行程中、マイクロフォンが既に吾々の耳とは違つた性能で出來て居るし、光に變へられたものが、焼付けだの現像だのと云ふ過程を經、再び又逆の行程を經る譯で、云はゞ物理學的なものと化學的なものとの二つの歪を受ける譯であつて、演奏された音樂は再生に際して可成り異つた樣相を示すものなのである。從つて、演奏される音樂は生のまゝ單に耳に依つて其の効果を判斷することは出來ない。又、其の歪の度合は音色に依つて異るし、會話とか現實音の有無に依つても、影響を受けるので甚だ厄介なものなのである。現在の處最も再生歪の少ない樂器は三味線とサクソフォンであるが、此れ二つでは映畫音樂はどうにも仕樣がない。從つて、この變性の起ることを意識して作曲し、又演奏しなくてはならない。
これには、可成り組織的な知識が入要なので、一時獨逸にあつては、パウル・ヒンデミット達に依つて此の歪に適應すべき器樂法、演奏法の研究が行はれたのであつたがヨーロッパに於ける最近の錄音技術の急激な進歩は、總る演奏を生のまゝ、或はそれ以上の効果を以つて錄音することに成功した爲、この適應の研究は其の意義を失ひ、自然に消滅したのである。だが日本の現在のトーキー技術は未だそこまでは來て居ないので、作曲家はこの歪を意識しながら仕事をしなくてはならぬと云ふハンディキャップを持つて居るのである。現在、日本では四十人以上の管絃樂を使用するのが普通であるがアメリカでは廿四人以上の編成を使用することは稀であると云はれて居る。
此を以つても其の錄音技術の差を知ることが出來ると思ふ。
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次は、錄音の樣式に就て述べると(これはスタヂオに依つて異るところではあるけれども、)演奏者達は布やテックスの貼り廻らされた残響と反響を調整された室で演奏する。それに續いて、モニター・ルームと云ふ厚い二重のガラスで區切られた室があつて、この室では、生の音樂ではなく劇場で再生されるのと同じ樣な强弱と音質とを持つた効果が、擴聲器に依つて聽き得る樣になつて居る。此の中には、作曲者(指揮者)演出家、錄音技師等が入る。又、此の室からは錄音すべき畫面の映寫が見える樣になつて居る。
準備が調ふと1・2・3・の文寫の入つたフヰルムが一秒隔きに寫つて映畫が映り始める。指揮者は此れを合圖とし、畫面を見ながらガラス張の中から演奏を指揮する。
此の時、演出家と錄音技師と作曲家とが種
々の角度から會話とか現實音とか音樂の盛り上りなぞに關し合議檢討しこれを調整しながらフヰルムに錄音して行くのである。この樣にして錄音を完了したフヰルムが、一定の行程を經て映寫用のフヰルムが作られるのである。一般には上述した樣な順序で映畫音樂が出來上るのであるが時には非常に音樂の効果が重要である樣な場合は、はじめに音樂を錄音し此れに演技を合せたり、又其の時間に合せてフヰルムを編輯したりすることもある。この樣な場合の音の扱ひをプレ・スコアリングと呼び、又此の樣にして行はれる演技をプレイ・バックと云つて居る。其の他、種々の方法があるけれども此等は音樂と云ふよりは錄音技術の問題であらう。
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最後に、よくトーキー音樂の在り方に付いて語られる場合、耳にする言葉があるのを念のため附記して置きたいと思ふ。
それは、映畫とは綜合藝術なのだから映畫の効果音樂は決して耳につく樣なものであつてはならない。それは綜合を被るものであると云ふ見解である。これはサバニエフ等に源を發するものであつて一應正當な意見である。だが、綜合と云つても同時的綜合と、時間經過を計算に入れた綜合とがある筈であつて、或る場面はカメラの魅力、又或る場合は演技の力、そして或る時は効果音樂が主位を占めることがあつても、これは綜合を破つて居るとの口實とはならない。唯、その各々がマイナスの効果を生んだ時、はじめて其れ等は非難さるべき筈のものである。
映畫は時間經過の上に成立して居るものであつて、此の後者の立場が寧ろ妥當とさへ思はれるのである。
事實、最近になつて、前述のサバニエフ等の意見はハチャトゥリァン等の見事な實踐に依つて完全に覆へされて了つた事を附記してをきたい。
コンサート第一輯,p.21-23.1953.12.名古屋市音樂協會