日本狂詩曲と其の作家への蛇足
伊福部昭
マルセル・プルウストが云ふ様に((日本狂詩曲))と云ふ標題から受ける最初の印象は、最早何か或る概念を造り上げ其の概念はかつて実在した誰かの作品に酷似した曲の姿を、人々の頭に浮び上がらせて、私の此の作品は未だ音響化もされない内に明確な題名の故に、幾分既に概念化されてしまつて居ると思はれる。想像を廻らし予想する事は人間の特権であるとは云へ私は今から概念化されてしまふ事を好まない。
既成概念が時として((屢々見受けられる事だけれども))作品の内容を、本質を、全々理解出来得なくする程迄に根強く働く事の有る事を目撃して居る私は、今此処に私の作品、私の創作意図、及び私自身に就いて明確な説明は勿論、何か漠としたアウトラインを着け加へる事さへも本当は為したくない。其れは彌が上にも私の作品を唯だ概念化((私の最も恐れて居る))してしまふに力有る以外には全く意味が無いし、作家自身が自分自身を、自分の理論を、又自分の作品が如何なるジャンルに入るべきかと云ふ事を、得々として文学的(?)に装飾して見ても((恐ろしく流行やり又甚だ容易な事だけれども))之れも亦大いに意味ないからである。
唯だ私の望む事は、全く虚心な態度で何時の日か私の其の音響に接した時、若し心から感じて頂けるならば、唯だ理屈なく感じて頂けるならば私は全く満足である。何か二三の形容詞で簡単に形容し切らなければ、又今までの作家の誰かに無理にでも類似点を見出さない内は((類似点が有ると無理にでも見做してしまはない内は))何ふ云ふ訳か其の作家を、作品を理解し得たとは何ふしても考へたがらない特種の藝術家に何も強いて私の作品は理解される事を望みはしない。
云ふまでも無く或る一貫したイデが私の此の作品を完成せしめた事は事実であるけれども、其れに就いて今此処で述べ立てるには忍びない、作品が例へ相当なものである場合でさへ、早くも其の作者が満足の意を表した時程みぢめな事は又と無いからである。そして満足し自分自身でも大いに気に入つて居る作家((演奏家も、又其云ふ役割を演ずる総べての分野の人達も此れに含まれる事は云ふまでもない))は常に又幾百人の気に入るものだけれども、特に選ばれた少数の人にしか気に入られない作家((・・・・・・))は又自分自身でも気に入らないものである。
或るイデが一つの作品を造り上げた時、人々は其のイデは完璧なるものであり、其れは又其の作家のみが到達し発見し得たものであると考へたがるし、時には又作家自身が勇敢にも其のイデは自分だけが到達し発見し得たものであるかの様に考へ、或は言ひ触らすけれども、発見したと言ふ事は疑も無く彼が其れ以上探し求め様としなかつたからだし、探求の停止及び停止の形式は発見の感じを与へるものなのだ。
又『或る一人の藝術家の理論は常に其の本人を唆して彼が愛しないものを愛し、愛するものを愛さなくする』と言ふヴァレリイの名言の実例を現代の藝術界に余りにも多く見せつけられて居る私は、不幸にも私の理論とか意見とかに就いて今此処に偉らさうに述べ立てる勇気の持ち合せが無い。以上の様な種々な理由で私は私の作品の性質には触れずに、単に其の生立ちの現状を述べるに止どめる事を諒解し頂かねばならない。
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此の度の応募曲は((日本狂詩曲))と名は附されては居るけれども、今シーズン((三五-三六))ファビアン・セヴィツキイの指揮の下にボストン・ピイプルス交響楽団に依つてジョルダンホールで世界初演される私の同名の交響曲の全部を包含する訳ではない。其れはコンクウルの時間の制限上、重要な第一楽章を取り除く事を余儀なくされて作品は他の立派な全身像達の中に手を捥ぎ取られたトルソオのみぢめな形で出品されたのである。
此の作品は初め三浦淳史君((新音楽連盟の重要な役割を演じて下れて居る))の薦めでファビアン・セヴィツキイ((説明するまでもないと思ふ))の為めに稿を下したのであつた。セヴィツキイからの彼の書信には次の句が読まれる。『唯だヤマダと言ふ作家の作品を聞いた以外には、日本が音楽上何の様な事を為て居るか私は全く無智である、作品の演奏を約束する事は出来ない。其れは唯だ内容の如何による、とは言へ勿論グリュンベルグ、ブロッホ、ショウスタコヴィッチ等のモダニズムも私の演奏を防たげはしない』
私は此の作品に没頭したのである。
フィラデルフィア・チャムバー・シムフォニエッタの為めに書き初めに此の曲は軈てセヴィツキイがボストン・ピイプルス交響楽団の指揮者に成つた事を知つて((私も其の頃此の作品がフル・オーケストラを必要とする事を痛切に感じて居たので早速))十六個の打楽器群と二台のハープ、一台のピアノを持つ三管編成のフル・オーケストラの為に構想を変へたので有つた。去年(一九三五)の七月の終りに近く完成して次のタイトルを持つ私のスコアを彼に捧げたのである。『日本狂詩曲・第一楽章日本舞踊調(ヂョンカラ)・第二楽章ノクチュルンヌ・第三楽章祭り』
其の頃又三浦君が早坂文雄君((此の度の放送協会のコンクウルに入賞した私と同齢の新音楽連盟が持つ優ぐれた作曲家))の熱心な薦めに従つて第一章を除いてチェレプニンのコンクウルの方にも出品して置いた。
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十月も終りに近い頃、セヴィツキイから日本狂詩曲をボストン・ピイプルス交響楽団に依つて自分の出来得る限りのタクトを以つて今シーズン中に((三六年四月二十六日迄))に全曲の世界初演を為したい旨の書信があつた。そして私のスコアは図らずも彼のジョン・アルデン・カーペンター((摩天楼や気狂い猫等のモダアンなジャズバレーを書いて居るアメリカの手の着けられない作家))の絶大な讃辞を受けたのであつた。
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以来私は連盟員の心からの援助を受けて全パートのコピイに専心したのであるが、自由な時間を殆んど持つ事の出来ない私は毎日数時間の睡眠を取る事さへも困難であつた。そして此の捗取らない此の仕事が漸くあと二三日で完成し様として居た十二月の十七日、北太平洋に面した汽車も無い小さな港町で私はチェレプニンの入賞の報に接したのであつた。(一九三五・一・一六)
月刊楽譜二月号. Vol.25, No.2. p100-102. 1936. 月刊楽譜発行所 東京