・ここでは、伊福部先生が1990年1月13日に行われた東京都交響楽団第302回定期演奏会<都響日本の作曲家シリーズ7 伊福部昭作品集>の解説プログラムである、月刊都響No.64に寄せたエッセイを都響様の諒解を得た上で全文掲載致します。

・伊福部先生の音楽に対する考えや作曲家としての態度が垣間見られる文書ですので、御高覧下さい。

・猶、第302回定期演奏会では、日本狂詩曲、ラウダ・コンチェルタータ、舞踊曲「サロメ」が演奏されました。

  『声無哀楽論』随想

伊福部昭

 

 今世紀初葉、ストラヴィンスキーは「音楽は音楽以外の何ものも表現しない」と主張した。又、フランスの哲学者アランも「音楽家訪問」の中で同じことを述べている。この言葉は、それ以前のロマン主義、印象主義に見られがちであった恰も音楽は何事でも表現し得るものであるかのような行き過ぎな態度に対して吐かれたのであった。
 

 この主張は、紛れもなく正しいのであるが、どうも誤解を生み易く、現在でも、多くの音楽家や鑑賞家にとって抵抗のある言葉となっている。それならば、なんのために作品に題名があるのか、或は、ロマン派の作品が総て音楽上価値が低いのか、と言った風な些か見当の外れた反論がなされるのである。勿論、このような思考は今世紀になって初めて現れたものではなく、既に、ショウペンハウアーの著述の中にもその萌芽を見ることが出来る。

 

 然し、驚く可きことに、中国にあっては、これと同一の見解が、今より1700年前、3世紀の卓越した思想家であった嵆康[けいこう](Ji Kang 233262)字は叔夜[しゅくや](Shu Ye)という人の『声無哀楽論』の中で既に述べられているのである。これは声に哀楽無きの論と読むが、この声とは声楽のことではなく、当時は広く音楽一般を意味する語であった。対談形式で進められるこの書では、相手がなかなか納得しないので、終いには、甚だ諧謔に富んだ例を揚げて説明している。即ち、酒を飲むと人によって楽しげに明るくなる者と、逆に哀しげに暗くなる人とがあるが、決して酒の中に哀しみや楽しみが含まれている訳ではない。音楽にあっても同様で、これを聴くと色々な心象が喚起されるけれども、それ等の心象は、決して音楽の中に含まれているのではなく、受けとる側にあると説くのである。

 

 勿論、音楽とは本来情緒の所産であるから、或る音楽が、或る程度類似の心象を喚起することのあるのは知られている。強奏される行進曲が子守唄にそぐわなく、又、細々と唄われる御詠歌のようなものが士気を鼓舞するに適さないことは認め得よう。然し、或る音楽が常に総ての人に類似の心象を生むものであると決めつけることには問題がある。

 

 1934年、東郷平八郎元帥が亡くなった。元帥は、日本海々戦で、当時無敵とされたロシアのバルチック艦隊を殲滅した東洋の英雄として、その名は世界に轟き、アジア諸国では、生れた男の子に「トーゴー」と命名する者が出る程に広く畏敬されていた。日本では、当然、国葬となった。

 

 その折、アメリカからもラジオを通じて追悼の音楽が日本に送られて来ることとなった。指揮は、ストコフスキー、演奏はフィラデルフィア管弦楽団であった。耳を欹てて放送を待ったが、送られて来たのは意外なことに大管弦楽による「かっぽれ・活惚」であった。この曲は、日本では明治10年頃より吉原の遊郭で踊りと共に流行、後に全国に座敷唄として広まり、乱れた酒席などで行われる軽佻な俗曲である。一瞬、耳を疑い揶揄されているのかとも思ったが、国葬に対してそんなことのあり得る筈もない。或は、荘子が妻の死に臨んで「これで妻は自然に還った、こんな目出度いことはない」と言って盆を打ち鳴らし喜び踊ったという有名な故事があるが、日本も近隣種族と考えての上かと些か真意の理解に戸惑ったのであった。

 

 然し、後に聞くところによれば、ストコフスキーは勿論、オーケストラの団員全員が、あの「かっぽれ」の曲調が、東洋の偉大な英雄の死を追悼するに相応しい悲しみに満ちた壮大な音楽であると感じたということであった。民族と伝統が異ると、音楽によって喚起される心象がこのように全く異なったものとなることさえあるのである。

 

 現在では、その頃とは異って、文物の交流も深まり、人の往来も夥しい数にのぼっているので、相互理解の度合も比較にならぬであろう。

 

 曽って、数学者岡潔は「奥の細道」に関連して、一つの民族の感性や美感が定着して、独自の文化となるためには5000年を要すると述べている。5000年は兎も角として、異文化間にあって感性の全き同化は甚だ困難なことであり、そのためには極めて長い年月を要し、殆ど不可能に近いという意である。

 

 又、近年では角田忠信氏等の研究に見られるように、その人の母国語の差異に伴って、音響を認識する脳の部位が左脳、右脳と異るものであることが生理学的に確かめられた。従って、われわれが西欧の作品を聴く場合、深く理解しているつもりでも、感性の上で異った受け取り方をしている確率は可成り高いと思われる。然し、これは致し方のないことである。

 

 先に、音楽は音楽以外の何ものも表現しないと述べたが、これは音楽以外の何かを表現しようとして、音楽がそれ自体もっている自律性を逸脱しては、最早、音楽ではなくなるという意である。この音楽の自律性というのは建築における重力支配のようなもので、これを無視しては、建築は成立し得ないのと同様である。「建築は凍った音楽である」といったゲーテの指摘は、このような立場からの発現である。

 

 ロマン派の巨匠達の作品にあって、時に明確な題名をもち、音楽以外の何かを表現しようと試みたかにみえるものもあるが、巨匠達は皆、余りにも天性の音楽家であったので、音楽の自律性を逸脱するまでには至らず、見事な作品として結実したのである。この場合、作品に付された題名は、作者にとって、一つの啓示、或は触発となったことを物語るもので、題名に伴う連想を求めているのではない。

 

 後人が自分の印象に依り勝手な題名を付したりするのは論外である。

 

 然し、一方歌詞を伴う作品にあっては、別の考え方が必要となる。特定な詩とかドラマの要素が加味されることとなるからである。勿論、これを無視しては意味をなさない。従って、作曲者は音楽の自律性を保ちながら特定な世界の雰囲気の醸成にも配意しなければならぬこととなるのである。これは、明らかに論旨としては二律背反である。

 

 翻って、われわれの日常の生活もよく見ると、動物愛護を唱えながら動物を食べ、又、平和のためといって戦うといった二律背反に満ちている。音楽も同様に或る程度、二律背反の不条理の世界なのである。禅師道元も「かくある可し」という風な固定観念を「悪知」と呼びこれを避けている。われわれも、この悪知には陥りたくないものではあるが、然し、原則としては二律の何れかに重点を置かねばならぬであろう。

 

 今世紀の中葉以降、音楽の世界では、種々な主義、主張が現れ、極めて晦渋な題名を付し、鬼面人を驚かす類の音響で組立てられた作品が、芸術的に高度なものと評価される時期があった。然し、これ等の作品は、確かに手法も音響も耳慣れぬ新しいものではあったが、音楽が本来もつ自律性よりも、音響に依って音楽以外の何かを表現することを重視する点で、即ち、発想の立場としては、自からは否定し最も嫌悪しているロマン主義の延長に過ぎないものが大半であった。

 

 1980年頃より、この波は次第におさまり、音楽の自律性の重視が蘇り始めているように見える。ストラヴィンスキーの造語を借りれば、「クロノミイ」の復権ということにもなろうか。

 

 改めて嵆康の卓見と、流れ去った1700年の歳月を思う。

 

(いふくべあきら 作曲家)

月刊都響64, p14-15, JAN, 1990.