・ここでは伊福部先生が、婦人タイムズ紙1960年(昭和35年)2月15日号に寄稿したものを、伊福部家の御諒解の許、全文掲載致します。
・この文書は伊福部先生が女性の化粧についての感想を先生一流のユーモアを交えて述べられています。現代人の化粧はどう思われていたのでしょうか?御高覧下さい。
・なお、この時期、伊福部先生は幾つかの婦人誌に寄稿されていることが判明しております。
 
・転載に際し、一部体裁を改めさせて頂きました。また、明確な誤植は【】に訂正させて頂きました。

ひそみにならう

若い人のお化粧のこと

 
伊福部昭

 

 あまり外出ということをしない性なので、今年になってからも、まだ玄関を一歩もでたことがない【。】

 だから、いまの世間について、口はばったいことはいえた義理ではないが、それだけにかえって、たまに街にでかけたりすると、どうも気になることが多い。若い女の人の化粧の変遷もその一つである。ことに眼の周辺がめだつ。どのようにしてするのかは知る由もないが、とにかく見た感じではわたくしども特有の蒙古しわはまったく塗りつぶされ、国籍が不明であるばかりでなく、彩色の関係か眼が上下さかさについているように感ぜられる。そして、眼を閉じたり、またたいたりするのを見ていると、上まぶたがおりるのではなく、ちょうど鳥類やは虫類のある種のもののように、下方のまぶたが上にあがって行くような奇妙な印象を受ける。このような眼で見つめられるとわたしなぞはちぢみあがって、かつてはは虫類が全盛をきわめた遠いむかし、いまから一億年前の中生代にすんでいるかのような不安な居心地となる。

 

 しかしこのような中世【生】代的化粧法が流行するところを見ると、これを美しいものとして受けとる人がたくさんおり、またこの方法のよくにあう人がどこかにいるに違いないのだと思う。これはいまもむかしも変らぬらしい。

 西旋(せいし)は越王勾践(こうせん)が呉王夫差(ふさ)に贈った女で、夫差はその美しさに溺れて、ついに勾践に国を滅されるといういわくつきの沈魚落雁とも評すべき絶世の美女であった。この西旋がたまたま病を得て里に療養していた時、苦痛のためいつもまゆをひそめていた。この様子を見た里の若い女どもは、これが美女と評される秘訣と思いこみ、みな自分の顔とは相談無く、まゆをひそめて街を歩いた。

 こればよほど流行したらしく、荘子によれは、これを見た富人は堅く門を閉ざして外出しなくなり貧人は妻子の手をひっぱってその場から走りにげさったという。ひそみにならうということわざはこの故事からでたが、また張芸叟(ちょうげいそう)の詩に鳥獣の言葉をよく解し、話すことができるようになったと自負した男が、人語を軽べつし、深山にこもったが、実際に話して見ると一つも意味が通ぜず、ついに半生の間、口をかんして淋しく暮す話がある。このように鳥獣のまねや化粧なら罪もないが、いずれにしても、自分の立場を忘れた単なる真似ごとは、どんなに修練をとげたようでも結局真似ごとの域をで得ないものらしい。

 いまのこの真似ごとの時代を荘子が評するならば、再たび富人はかたく門をとざして出でず、というであろう。そうすればわたしの出不精も富人なるが故の業と見なされるかもしれない。(いふくべ・あきら氏は作曲家、本紙編集同人) 

 

婦人タイムズNo.685 1960.2.15 婦人タイムズ社 東京