雑司が谷の伊福部昭/最終回;徳は孤ならず

 札幌二中時代からの朋友、三浦淳史の「伊福部昭とメフィスト」(1957年「音楽芸術」5月号)と題するエッセイには次のような記述がある。「伊福部はいわゆる楽壇づき合いをしないので、誤解曲解されることも少なくない。(‥‥)これは僕らが受けたあの偽善的な修身的形式教育のワクの中で音楽をやってきた反逆的精神のお陰で、それが脈をひいているんだと思う。だから芸術の分野でもいかにももっともらしい芸術や芸術家と称するひとたちに反撥を感じるのだ」と。また、最初期の弟子である黛敏郎は「伊福部先生は孤高の人である。」の書き出しで始まる凝縮された伊福部論的小論(1984年「伊福部先生の人と作品」キングレコードリーフレット)の中で、「先生はしかし、徒党を組んだり、派閥を形成することを好まれない。もとより、世俗的名声を得ることにも興味を示されない」と書いた。三浦も黛も伊福部の本質を、周囲とは一線を画した特異な存在として論じ、紹介している。

 

 

 195060年代の、映画の全盛期には多忙を極めた伊福部も、その後は自分の生活と時間を大切にするようになっていた。伊福部が教育者として第2のステージとなる東京音大教授として招かれたのは1974年で、その年は地価上昇率が史上最高と言われた年でもあった。列島改造、技術革新、内需拡大などの言葉が新聞紙面に踊っていた頃で、そのまま90年のバブルへと向かってゆく経済優先の時代であった。

 

 いつしか日本中がコンクリートとプラスチックとアルミサッシに囲まれた画一的な風景になっていた。パリのセーヌ川沿いには決して高速道路が作られることはないが、江戸の中心日本橋の上には空を覆うかのように高速道路が走っている。そんな無機質な景観に象徴されるように、当時の文化人と言われる人たちの多くは、左翼的イデオロギーで物事を語り、メディアの世界では進歩主義的思考が大勢を占め、身も蓋もない敢えて偏った言い方をするならば、作曲家は皆同じ傾向の曲を書き、同じことを言い、まるでそれが作曲家の仲間入りをするための、ある<しきたり>であるかのような、安っぽい規格品だらけの時代になっていたのではないだろうか。そんな中にあって伊福部は泰然として本来のスタイルに固執し「どんなに科学的に調合されたビタミン剤であっても、一個のりんごに勝るものではない」と、自分の中の一個のりんごを大切にし、また、無闇にそれを人手に渡すことを潔しとはしなかった。つまり、黛の記述にある「世俗的名声を得ることにも興味を示されな(かった)」のである。

 

 広上淳一は「先生の音楽は時に異端であるかのように冷遇された。けれどこうしたアカデミズムや西洋の論理に真っ向から対峙した生き方自体が、先生が日本に残した最大の功績ではないか」(日本経済新聞2006214日)と伊福部の想い出を語っている。

 

 

 学長職(1976年~87年)における伊福部は老子の「国を治むるは小鮮を煮るが若し」(国を治めるのは、小魚を煮るのと同じで、あまり突付かず、煮えるにまかせておいた方が良い)、「徹を司るは無徳」(徹底的に追求するのは徳のないことである)を密かに自らの掟のようにしていたところがあった。また、個人的且つ低次元の陳情や相談ごとなどには、時に持病(戦時中の飛行機の強化木研究時における放射線障害)がその理由になることもあったが、多少の義理を欠くことがあっても、職務と自身の生活とを上手くコントロールしていた。この辺りは文豪・夏目漱石とも相通ずるところがあるようにも思う。

 

 漱石は<高踏派>と言われ、持病(胃潰瘍)をかかえながらも、ユーモアを忘れず、教育者の一面も持ち合わせ、多くの弟子に囲まれていた。しかし、自身の創作活動に支障をきたさぬよう、自宅での弟子との面会は週に一度、木曜日に集約するようにしていた。この集まりが木曜会と呼ばれ、後々まで門下生との心の交流の場となったことはよく知られている。伊福部にあってのそれは大学に於けるゼミの火曜であり、自宅に於いては正月2日の弟子たちとの新年会であったと言えるのかも知れない。

▲ 学長室の伊福部(1980年)

 197980年は伊福部にとってのいわばターニングポイントとなった年であった。『リトミカ・オスティナータ』以来の大作となった『ラウダ・コンチェルタータ』(1976年、1979年初演)が高い評価を受け、続く『シンフォニア・タプカーラ(改訂版)』(1979年、1980年初演)で、にわかに再評価の嵐が沸き起こったのだ。作品演奏の機会が増え、それまであまり表に出ることのなかった伊福部に、冬の冬眠から目覚めさせるかのような春風が吹き始めた。散逸して不明となっていた楽譜の発見や、旧作の発掘・再編もなされ、それらの蘇演や、後に日本フィルによるCDのシリーズ化もあり、伊福部作品に接する機会が急に広がっていった。古弟子が中心になって伊福部の古稀を祝う記念の演奏会を企画したのもそんな中でのことであった。伊福部は多少の戸惑いを感じながら「胴上げされて、いい気になっていると、手を離されて地面に落とされることもある」などと、「塞翁が馬」の心境でもないとは思うが、正月2日の古弟子らの話しに諦観と自嘲の笑いを浮かべていた。

 

 古稀記念演奏会の1年前、1983年に東京交響楽団による伊福部の協奏的作品のみ4曲を集めた「協奏4題」と銘打った演奏会があった。曲は『ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ』(1961年)、『ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲』(1971年)、『二十絃筝とオーケストラのための交響的エグログ』(1982年)、そして『オーケストラとマリンバのためのラウダ・コンチェルタータ』であった。この演奏会がもたらした影響は大きかった。特筆すべきは、これまで伊福部作品に対して否定的な見解を示していた柴田南雄や林光までもが賞賛する側に回ったことだ。

 

 柴田は「幼少時から東京で洋楽を習わされて育った人間は、すくなくとも戦前には伊福部の音楽を感覚的にはまったく受け容れることができなかった。今日でも、西欧風の技術的洗練や劇的展開こそ音楽の生命と思っている人々には、彼の音楽は異質のものでありつづけよう。だが大河小説さながらの作風は、とくにその生命感あふれるリズムに特徴があるし、管弦楽法は堅固で巧妙そのものだ」(1983年「聴く歓び」新潮社)と、素直にこれまでの自身の見解を改めた。

 

 林も「平明にして簡素な旋律が、始原的ともいえる舞踏のリズムにのって、あくことなくくりかえされ、いつのまにか、きき手を陶酔境にさそい込んで行く氏の音楽は、伊福部節と呼ばれてきたが、その伊福部節ばかり、ひと晩に四回は空前絶後の体験であった。姑息な転調や、主題のいわゆる展開には、目もくれない構成。そして、独奏楽器とオーケストラは対立せず、主従の関係ももたず、同じひとつの旋律を、同時にひく。それは、同じ道具を用いながら、氏の音楽の原理が西欧音楽の原理からはるかにへだたっていることを示す。にもかかわらず、氏の音楽は、そこで用いられている西欧起源の楽器(二十絃筝以外全部)の伝統的な使いかたへの、大らかな信頼感の上に組み立てられていて、そのことが氏の音楽に、明快な大衆性を付与している、といえるだろう」(朝日新聞1983216日)と、当日の演奏会場の聴衆の熱気を目の当たりにして、伊福部音楽を全面的に認めざるを得なくなった、といった感であった。

 

 外にもユニークな演奏会があった。慶応大学に「三田レコード鑑賞会(=MRK)」というサークルがあって、1985年にそのサークルが主催する演奏会が新宿文化センターであった。伊福部と同年の1914年生まれの作曲家3人を揃えたテーマ性のあるプログラムで「日本民族楽派の古典」と題されたその演奏会のメイン・プログラムは『シンフォニア・タプカーラ』、前半が小山清茂の『信濃囃子』と早坂文夫の『右方の舞と左方の舞』であった。オーケストラは新交響楽団、指揮は芥川也寸志、学生が自主的にこのような演奏会を企画し、主催するということ自体に驚くのだが、パンフレットに書かれた2段組10ページを超えるプログラムノートにも感心させられた。そこに筆者の名前は記されていなかったが、日本の作曲家の作品に関するかなりの知識をもち、明晰な文章でそれぞれの作曲家を論じ、そこに筆者の思考の深さと射程の広さが表れていた。特に伊福部にはかなり多くのページが割かれていたことは言うまでもない。彼の名はその後音楽評論に於いて重要な存在となる、当時はまだ慶応の学生であった片山杜秀その人であったことが、後になって判った次第である。

 

 

 論語に「徳は孤ならず、必ず隣あり」という言葉がある。徳のある人は決して孤立しない、必ず共鳴者が現れる。という意味である。こうして伊福部の評価が広がりを見せ、伊福部自身もまた、変わらざるを得なくなったのではないか。かつての<孤高>から、その垣根を低くして、物事に捕らわれず、こだわらずといった、禅的な広い寛容な気持ちで回りと接するようになっていった。釈迦の言葉「娑婆往来八千遍」を引用し、それまでほとんどそのような言葉を吐いたことのなかった伊福部だったが「ひとり高い所に居るのではなく、泥のような中へ入って、また出て来て、それを繰り返しながら」などと語るようになったのである。

 

 冒頭に引用した三浦淳史の文章には次の言葉が続く。「いつになったら円満になれることやら望みがなさそうだ」と、つまり<反逆精神>の次なるステップとしての伊福部を逆説的に望みがないかも知れないし、あるかも知れない、とその可能性をほのめかしてもいるのである。円満という言葉が当てはまるかどうかはさておいて、伊福部に共鳴する多くの聴衆、それが潜在であれ、顕在であれ、また、映画音楽、純音楽を問わず、多くの理解者に迎えられて、伊福部における内と外との対立的電圧の差は確実に弱まってきたことだけは確かなのだ。

 

 

 東京音大では11月の初めの三日間は「芸術祭」と称する、学生のお祭りがある。一般大学でいう学園祭である。キャンパスには幾つものテントが張られ、模擬店が並ぶ。そうした中の一つに198586年、作曲の学生が「いふくべ亭」なる伊福部の名を冠した居酒屋仕立ての模擬店を出したことがあった。作曲の学生がこのようなことを企画したのは初めてのことで、伊福部もこうした学生の遊び心とユーモアを素直に喜んでいた。

 

 漱石が<個人主義>からその晩年は東洋的<則天去私>へとその心境を変化させていったように、伊福部もまた<孤高>の境地から<徳は孤ならず>を経て、そして更に<娑婆往来八千遍>へと、より心を広くして裾野を広げていったように思えるのだ。

▲ 伊福部の娑婆往来八千遍
コップには日本酒がなみなみと注がれている。
東京音大「芸術祭」模擬店で大学後援会長と(1979年)

 

雑司が谷の伊福部昭 了