作曲 雑感

xii. 理論武装の危険性

 ある理論立てをして自身の作曲を在る方向性に限定する場合があります。一つの旋法(モード)に限定するとか、4度の音程に固執するとか、様々。約束事を作る事は必ずしも悪いことでは無いのかも知れませんが、作品を理論で手枷足枷してしまうことの落し穴について多くの先達が言葉にしています。ハチャトゥリアンは「ペンタトニック(5音音階)について、アジアの性格を表わす伝統的音階ではあるけれども、それだけでは不十分である。」として、5音階の限定を捨てました。サン・テグジュペリは手帖の中で「イメージを理論で説明することは出来ない。」として、理論を優位とすることへの警鐘を鳴らしました。美感の確立は作家にとっては最重要課題ではるけれども、そこに確定的な制作理論を構築してしまうことの危険性を念頭に置かなければなりません。その昔、12音音楽(ドデカフォニー)という音楽理論が結果、作家のカラーと音楽性を薄めた危うい歴史を知っています。そう考えて無い音楽家の方が多いのかも知れませんが。ヴァレリーは著作の中で「ある一人の芸術家の理論は、常にその本人をそそのかして、彼が愛しないものを愛し、愛するものを愛さないように誘惑する。」と警告しています。

xiii. 最後に

 最後に。ボレロの作曲家モーリス・ラヴェルは、作曲の勉強法について、影響の強い好きな作家がいるのなら、それを真似て作曲する事をお弟子さんに勧めていたようです。必ず真似し切れない部分が出て来るのだから、それを自身の個性だと考えて、それを膨らませて行くということを推奨していたことを弟子のローザンタールが書き残しております。恐らくはラヴェル先生御自身の学習法でもあったのだと推察します。アンドレ・ジッドは「影響とは受け手の類似性が引き起すものであるのだから、影響を感じた時にはその影響を甘受すべきなのが作家としての態度である」と語っています。またアポリネールは「芸術家の個性は自分が引き受ける闘い(影響)を通して確立される。ほかの人たちがどんな方法で制作しているのかを注意しないのは愚かな事にちがいない」と画家のアンリ・マチスに語ったそうです。影響という言葉の多くは否定的な意味、悪口で使われる事が多いものですが、だれしも圧倒的な影響を甘受したかも知れない大家がいたはずです。 

 

 以上長々と脱線をしながら、自分が学んで来た事を基に私自身の方法論を列ねてみましたが、これも畢竟、一人の作家には一つの方法しか方法論は存在しないという事に帰結します。いや、もしかすると一つの作品には一つの方法が限定されているのかも知れません。その意味では無意味な文章なのかも知れません。私の書き記した方法をとらない方が一般的なのかも知れませんし、読まない方がより独創への近道なのかも知れません。それは筆者自身の想像力の窺い知る所ではなく、それは同時に作曲の方法というひどく個人的な領域について語り尽くす事の難しさでもあります。一つの音楽の探し求める形は、結局は一つなのですから。

 

本編

 

以下続

第七回(最終回)