作曲 雑感/石丸基司

第一回;まえがき

 これは「伊福部昭公式ホームページ設立準備会(AIOHEPA)」の求めに応えて2009年の「アールクシリアンくしろ作曲家コレクション7」への寄稿文を再編集したものである。

 

  

 作曲の勉強を始めた頃の記憶はいつの間にか遠い昔のものとなり、いつしか自身の単一の手法のようなものに石化してしまった。作曲の方法などを年下の人間から問われるような齢となった時に、何から説明していいのやら、思い悩むばかり。もとより作曲の方法などある訳もなし。小生が師事した諸先生たちに比肩する程の才覚もなし。無いもの尽くしではあるけれど、思い出せば色々と目から鱗が落ちる程の感動に満ちた日々が蘇るのは不思議である。誰も書く事をしないので、それを単なる記憶の確認として言葉にすることを思い立った。更に掘り下げることも出来たはずだが、くたびれてしまった。いつか折をみて加筆する。

 

 

 作曲家というものになってみたいと願っていた学生時代がある。幸運にも数人の高名な作曲家たちに巡り会い、時には惑い、時には爪先立つほどに背伸びしてみたりしながらも自分の音楽というものの実体を探し求めていた。敬愛する西村朗先生や池辺晋一郎先生の独特な存在感に圧倒されたまま、自分の音楽が行方不明になり彷徨ったことは、人生の有難い経験となりました。惑いながらも、自身の音楽の針路が見えて来たのはようやく伊福部 昭先生との出会いからでした。あのサモワールの湯気の上がる学長室で開口一番「今でもジリ(霧と驟雨の状態のアイヌ語の意)と言いますか・・・?」「はい。左様で・・・」これが最初の会話でした。同じ釧路生まれという偶然の同郷の誼でした。いかにも道産子の気概に満ちあふれる人物だったことには妙な親愛感を湧かせて下さいました。厚岸の事、釧路の事など話すうちに、いつしか門弟となった経緯は自然なことでした。池野成先生が伊福部先生の補佐として大学にいらしていたことも幸運なことでした。その僥倖を感じた学生は多かったはずです。伊福部昭先生とその穎脱の弟子であった池野成先生からの言葉は若い作曲家の船出には充分な準備となったと記憶します。また、このお二人からは不思議な事に何を読むべきか学ぶべきかを強いられることはありませんでしたが、ある課題に直面する度に、こういう言葉がある・・・ああいう言葉がある・・・という啓示から、自らその言葉の初出を求めて発見した古書の数々が、今となっては作家として生きる財産となっています。神保町で過ごす時間が増えたことは自然でした。伊福部先生からの最初の言葉は当時「百年の孤独」がヒットしていたノーベル賞文学者である南米の文学者のガルシア・マルケスからの引用でしたし、もう一つは仏蘭西の文学者のポール・ヴァレリーでした。全集が出て、カイエの完訳が筑摩書房で済んだ頃でもありました。難しい言葉でしたが、座右の書物となっています。また、あれこれ読み進めて行くことで出会う翻訳者の堀口大学や吉田健一などの贅沢で清澄な文学に巡り会い。更に陶淵明や李白の詩文に遊んでいると、肩肘張らずにのんびり自分の音楽を捜せば・・・という境地に到るのでした。「いいじゃないか音楽など止めてしまって、活字に酔い、釣りでもしてまた一献」愛読するペルシアのルバイヤートの詩文にも似た境地は、怠け者の筆者には至上の楽園でした。「そうだ美味しい牡蠣が食べたい」と思って故郷に帰り来たのはそんな頃のように思えます。随分先生からは反対されました。人生も作曲も儚い朝露の如し。思い付いた小道に遊ぶも良し。いつでしたか、陶淵明は伊福部先生がそれを肴にされて、注しつ注されつ、ついには詩文に酔ったのか、先生からの盃に酔ったのかが分らなくなって・・・そんな時間がありました。こんな若造を相手にと後日恐縮したものでした。閑話休題。

 

 

 伊福部先生、池野先生達の振舞いといいますか、いつもこちらが恐縮してしまう温度の違う空気がありました。それは・・・「作り手としての気恥ずかしさ・・・含羞」。これをヨソ様にどう説明していいものかをいつも悩ましく思うのでした。これは師事した者でなければ理解することが出来ない、畏れの振舞いだと理解しております。作ることへの畏れ、人様に表現することの畏れ。表現者が表現を畏れる事の大きな矛盾について戦わない表現者を、また、それを感じられない表現者を哀れに思えるのは何故でしょう・・・。

 この「作曲法について」の駄文は単なる小生の経験的な理解であって、それが全て伊福部先生達の手法そのものでは無い事を、先生たちの名誉のためにも一言断わらせて頂きます。

 

平成2112月吉日  酔客 石丸基司

 

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