濃霧が旅愁をそそる釧路
伊福部昭
釧路河に面した幣舞という街が私の出生地なのだげれども、この街を離れて久しいので、今の新しい釧路について語る資格はない。
けれども時間と距離がへだたるにつれて、印象の深かったものだけが残る様な気もするのである。
何んといっても、第一の印象は濃霧である。
アイヌ語でクシュル(通路)の意味をもつこの街は、その沖合で暖流と寒流がぶつかるので、いつもひどい濃霧にとざされる。これをガスと云っていたが、更に濃く雨に近くなると、ジリと呼んでいた。酷い時は全く一間先も見えぬ程で、燈台も用をなさず、沖の船は悲しげな汽笛を鳴らし、これをたよりに航行するので、夜となく昼となくこの霧笛が鳴るのであった。釧路という名をきくと、今でも乳白色のガスと遠い霧笛が耳に響いて来る様である。
またこのガスが電線にたまって雫となり、その下の地面が四、五寸も掘れる様なことも珍しくなかった。
またこのガスの為に立木にはサルオガセという薄みどりの海藻の様な植物が垂れ下って、この地方特有の景観をなしていた。これは目には千年の古木を見る様な風格を備えたものなのであるが、肌ざわりが佳いため、地方では冬の便所の落紙に代用していた。近年はこれから香水がとれる由である。
また烏の多かったことも忘れ得ない印象の一つである。夕暮には海辺の森が烏で真黒になるのであった。シコタンカラス、カワカラス、中でもハシブトカラスは、子供が手に持っている菓子をもかすめるのであった。後年この地方に霧多布病という馬が立てなくなる奇病が表れたが、その原因は牧草についた夥しい烏の糞である、といわれたがさもあらんかと思ったことであった。
海岸線に沿った砂丘には、ハマナスが赤く咲き、エゾ百合が咲き乱れ、紫のアヤメが何町も続く群落をなしていた。トリカブトや、黒百合の花も見られるのであった。沼地にはペーカーウンペ(菱の果)が沢山あってこれを茹でて食するのであった。一寸水臭いが栗の様な味で、胃病の特効薬だということであったが、食べすぎるとひどく胸やけがするのであった。冬になると、河からシシャモ(柳葉魚)が沢山とれた。
手指位の大きさの魚であるが、乾して菓子の様に食べるのであった。その味はいまだに忘れ得ぬ珍味であるが、近年は殆んど見られない由である。
また近郊にはチャシと呼ばれるアイヌの穴居の趾があって、そこを掘ると矢ジリなどが出て来るのであった。また春採湖の一部には不思議な土質があって、クレンザー用になるのであった。またアイヌ達が沢山住んでいて、ウポポ、リムセ、タプカーラなどを見ることが出来た。
最近、親切な方があって、私がアイヌ音楽に関心をもっているのを知って、近郊の塘路のアイヌの歌を、殆んど全部録音して送って下さった方がある。これを聴くと当時の印象がよみがえって来る。
(作曲家)
旅 Vol.30, No.10. p73-74. 1956.10. 日本交通公社 東京