・ここでは、伊福部先生が、北海道新聞1984年6月25日の夕刊にに寄せた文書を全文掲載致します。

・文書は、1984年6月28日に開催された、石井眞木指揮、札幌交響楽団演奏による「伊福部昭の世界 シンフォニック・ファンタジア」に向けてのものでありますが、本サイトオリジナルエッセイで永瀬氏が触れられた「守破離」について、伊福部先生自身の見解が述べられております。御高覧下さい。

守 破 離

 

伊福部昭 

 

 病がちであった私も本年古稀を迎えることとなった。われながら不思議だが、天命と言うものなのでもあろうか。

 

 この年に至ると、改めて種々なことが思い起こされるものである。終戦の翌年の八月十五日に北海道を離れたが、偶然にも、その朝ラジオは私が兄の死を悼んで書いた曲「交響譚詩」を放送していた。生誕の地を離れるに当たっての餞(はなむけ)のようでもあり、また何か幸先が悪いとの思いもせぬではなかった。

 

 芸の修道には古来「守破離」と言う語がある。守とは、芸の習い初めにあっては、自我を殺し、一切の理屈をぬいて古典あるいは先哲の語をきびしく守れと言う意である。

 この守を修め終わったならば、それに安住することなく、これを自己の力で破り個性の発揮に努めなければならない。これを破と呼ぶ。
 

 ある意味では伝統の改革、あるいは進歩につながるようでもあるが、これは案外容易な世界である。私には、いたずらな前衛芸術はこの段階に留まっているかに見えぬでもない。
 

 真の道は、この破を越えて自我を離脱し最後の離の世界に達しなければならないとされている。このことは日本ばかりでなく、エリオットなどが「芸術の完成は個性の脱却にある」と言っているのを見ても洋の東西を問わぬ真理であることは疑いをいれない。
 

 私も、出来ぬながら、この離の境地に達したいものと長い年月努力してみたが、これはなかなか容易な業ではない。
 

 今、ふり返って見ると、私の音楽における離と思っていた世界は、実は、自分の幼時、あるいは年少の体験、言い換えれば、私の北海道時代の生活に戻りつくことに他ならぬかのようである。ゲーテも「真の教養とは、再びとり戻された純真さに他ならぬ」と言っているが、これを自己弁護としてひそかに慰めてみたくもなるのである。
 

 北海道はクラークなどの影響もあってか、本州とは何か異なった西欧文明の受け入れ方をしているようである。私個人について言えば、少年期をアイヌの集落近くで過ごしたため、その影響も少なくない。彼らとの生活が動機となっている作品もいくつかある。
 

 話はとぶけれども昨年二月NHK帯広放送局で「ふるさと紀行」とか言うラジオ番組で、私の小学校の同級生と電話で話しをしそれが放送されたが、その時、友人たちはそろって私が少年時代、蛇を好みペットとして室にたくさん飼育していたことを語った。このことは私はすっかり忘れていたが、友人にとっては、かなり風変わりに見えたらしい。しかし「火山灰地」の舞台となった寒村では、生活のため遊んでいる少年は少なく、私にとって蛇は静かな友人であった。
 

 この放送を聴いた周りの人たちは、こぞって貴方は昔から爬(は)虫類がそんなに好きだったのかと問い、それで例の「ゴジラ」などの映画に、あのような特異な音楽を書く心理が分かったなどと言われたりもしている。
 

 これもあるいは幼時体験に関連があるかも知れないが、とにかく若い時代の体験はなかなか根強いものがあるようである。
 

 今年の冬、東京は何十年来の大雪に幾度も見舞われ、雪に転ぶけが人も甚だ数多く、死者さえも出た。
 

 しかし、老齢でありながら私は一度も転ばず青年よりも速く歩くことが出来た。これは北海道での永年の試練が今もなお、体に残っていることを知らされ、私自身も改めて、そのことに驚いたのであった。
 

 離とは、甚だ高い境地なのではあるが、考え方によっては、なんら、こだわりのない幼時体験に戻ることかも知れぬとも思う。

 
 碧巌録などを読み直しているこのごろである。

(東京音楽大学学長、釧路市出身)

1984.6.25 北海道新聞 夕刊