・ここでは、伊福部先生が、音楽芸術1971年6月号「特集:新しい音の美の信奉者ストラヴィンスキー」に寄せた談話を音楽之友社様の諒解を得た上で全文掲載致します。
・音楽芸術1971年6月号は特集タイトルからも分かる通り、同年4月に没した作曲家ストラヴィンスキーの追悼号です。
・伊福部先生が少年の頃から敬愛した作曲家に対する考えが、御自身により披瀝されております。御高覧下さい。
・猶、原文は縦書きでしたので横書きに改めるに際して、読み易くする為、一部体裁を変更致しました。
ロマン主義の否定あるいはこれとの訣別
伊福部昭
以下は、編集部の設問に基づいた伊福部氏の談話速記です。
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序
ストラヴィンスキーの訃報に接したとき、だいぶ前から胸部疾患のため幾たびか重態が伝えられておりましたので、ついにその時が来たという感じでした。そして今ではその死をいたむとか、悲しむとかというよりも、何か壮大な叙事詩が終わったというような、ある美しさに近い感慨におそわれております。
ストラヴィンスキーの音楽が提示する意味
ストラヴィンスキーについては、その作品の多くが聴かれておりますし、またいろいろなことが語りつくされているので、いまさらつけ加えることもないのですが、私たちの年代と日本人という立場から一つ二つお答えいたしましょう。
ストラヴィンスキーは長い生涯の間にいろいろな発言をしておりますが、中で最も重要なのは「音楽以外の何ものも表現しない」ということばでしょう。これはきわめて当然なことで、取り立てることもないようなことなのですが、当時音楽というものが何となく文学とか、思想とか、また哲学等の派生的な所産であるというふうにみなされがちだった時代に、このことばを吐き、また、この理念を実践してきたことはきわめて注目に価することのように考えております。
これはちょうどステファーヌ・マラルメが「詩は思想でつくるものではなく、ことばでつくるものだ」と述べたことと表裏一体をなす思想だと思います。この二人のことばはともに芸術家ではなく、芸術愛好家たちにはなはだ嫌われ、ともすれば無思想であるとか、次元が低いものであるとか、あるいはそれは技術であって芸術に価しないとか、その他いろいろの誤解を生みやすいことばなのですが、これがほんとうの意味の音楽や詩の創作にあたって、もっとも重要な第一の基点であることは疑いを容れません。
この点でストラヴィンスキーは、外見はなはだしく異なるようですけれども、詩におけるポール・ヴァレリーと同一の場に立つ作家だと考えております。
なぜこんな点を強調するのかと申しますと、現代の音楽の中にはともすれば、なんとなく意味あり気な気取った題名を掲げ、意味あり気な音を、いかにも意味あり気に展開して、俗人の理解を越えた高度な芸術であるかのようにふるまうという傾向が一部に見受けられますが、これは私たちには音楽が音楽以外の何ものかを表現し得ると考える初歩的な誤解に基づく現象のように見えてならないからです。そうでなければはなはだ幸いですが、この種の作品がもしこの初歩的な誤解の所産であるとするならば、いかに高度な芸術を装い、また多くの賛同と喝采を博したにしても、それはしょせん、陳腐な通俗音楽にすぎません。音楽とは本来もっとはるかに高度な芸術なのです。
もちろんストラヴィンスキーの作品にも明確な題名のついているものがたくさんありますが、題名は作者の音楽的醱酵過程の方便として時に必要な場合もあるので、題名があるから直ちに次元が低いなぞといっているのではありません。要は何を表現するかではなく、いかに表現するかにあるわけです。問題は少し違いますけれども、たとえば絵でいえば聖者を描こうが、「かつて娼婦なりし女」を描こうが絵としての価値にかかわりがないのと似ております。
ストラヴィンスキーは、もうすでに古く、二十世紀初頭の作家にすぎないというふうな説も耳にいたしますが、このような立場から見た場合、彼の主張はきわめて正しいもので、けっして古びたものではないと考えております。
また、話は少しそれますが、本来、新しさというのは自動的に古くなることを意味しており、いいかえれば、ものの消滅すべき部分にすぎないので、芸術にあってそれほど血まなこになって追及するに価することではなく、要は作品の完成度だけが問題だと思っております。
私たち日本人の音楽の受取り方というのは、八橋検校のような例外もありますけれども、一般には花鳥風月などの事物と関連の上で考えるという長い伝統があるので、自律性をもった純粋な音楽世界を分立させることがどうも苦手なようなのです。このこと自体はひじょうに優美な民族性を形づくっているわけですけれども、純度の高い音響世界の確立という点に対しては、少しブレーキの役を果たしている点も認めなければならないように考えております。
これは数理の上でも同様ですが、たとえばわれわれがものの数を数える場合、そのものの形とか、性質によって一匹だとか、一尾だとか、一基とか、一面とかその他、西欧のことばとは比較にならぬ複雑多岐な助数詞というものを持っております。これは中国語の量詞の影響というか、関連のもとに育ったものとも考えられますけれども、いずれにしても純粋の数観念そのものが、ものの実態から遊離することを好まない傾向があることを示しております。これもまた関孝和とか、その他二、三の例外があるにいたしましても、明治までの日本の純粋数理の世界の分立という点にブレーキとして働いていたのではないかと私は考えております。
このように音楽でも数理でも何か付随的な事物からの独立を割合苦手とする私たちにとっては、今後純粋な音楽思考を確立する上に、ストラヴィンスキーのこの見解は、古いどころかますます大きな意味を持つものとなると考えております。
ストラヴィンスキーの音楽の表現
ストラヴィンスキーはその長い創作期間に、外見上の表現の様式をたびたびかえたので、ピカソなどと同様に作家としての節操に乏しいのではないかというような意見があるわけですが、作家は様式をかえなければマンネリズムだといわれ、かえればかえたで節操がないなどといわれるものなのです。
彼の自伝の中に少年の時の思い出として次のような話があります。
鼻の赤い男が木の株に腰かけて、掌を腋の下に入れて腕を動かしブーブーという音を出しているのを見て、少年のストラヴィンスキーはすっかり心をひかれて、家に帰って一生懸命これを真似するのですが、母親に“そんな下品な遊びはおやめなさい”といってしかられます。この遊び方は私たちも経験のあることで、別にとりたてるほどのことではないようなのですが、重要な点は、音楽家の家に生まれた彼が、それまでにすぐれた立派な音楽を聴いていたにもかかわらず、この事件を彼が音楽を音楽として初めて認識した重要な事件であるかのように取り扱っている点です。ここに彼の面目がたいへんよく暗示されていると思います。
この話は、文学とか、物語とか、あるいは思想だとか、哲学とか、そういうものに飾られた定評のある音楽の美しさではなく、音楽それ自体の構成と訴えを即物的にとらえるという、ストラヴィンスキーの感性を暗にほのめかしているからです。
この鼻の赤い男の出す奇妙な音と律動にひかれたというストラヴィンスキーの感性の中には、もちろんいろんな複雑な要素があるとは思われますが、音楽的に見て少なくとも次の二つの要素が認められると思います。
一つはこの下品な動作を伴った音への共感は従来の類型的なとりすました、あるいは繊弱な音楽を否定し、これに力強く立ち向かうという要素を持ち、また、一方、この感性の中には音楽における音楽以外の文学的粉飾のようなものを否定すること、いわばロマン主義の否定あるいはこれとの訣別、いいかえれば一種の古典主義に傾かざるを得ないという萠芽が認められます。
したがって、ストラヴィンスキーの初期の攻撃的な作品から一見正反対の新古典への推移は、私はこの同一の感性の両面にすぎなくけっして無節操な変貌だとは思っておりません。
次に、戦後音列作法ふうな様式にかわりますが、これはあの異常な感性を持つ才能が、七十年の年月を要して達した境地なので、今われわれが軽々に論ずべきことではないのですが、現在の私見が許されるならば、次のように考えております。
T・S・エリオットは、「芸術の完成とは個性の脱却にほかならない」と述べておりますが、これはまことに異論なくその通りなのですが、この個性の脱却をどのように作品の上で具現するかということは、まことに困難な問題です。これは美観と人間の練磨以外にはあり得ないのですが、ストラヴィンスキーの最後の作風への傾きの底にこれがあるのではないかと私は考えております。
ストラヴィンスキーはエリオットとオーデンなどという人と個人的なつき合いがあったようですし、もし私の記憶が誤ってなければ、エリオットなどと一緒に写っている写真を見た覚えがあります。しかしこれはまだよくわからないので、私がもし彼の年齢に達する事ができたとすれば、そのときは今よりは少しその心状をつかみ得るかもしれません。
なお、このエリオットのことばですが、どうも誤解されやすく、一般には個性の対照としては非個性とか、あるいは様式というようなものを考えますが、ここにいう脱却というのは、それをのがれて非個性、あるいは様式に逃げ込むことではなく、その意味は仏教で申します「自己を滅却して自分の中にある他己に生きる」というふうな境地に一番近いように考えております。
ストラヴィンスキーの音楽との出会い
私がストラヴィンスキーの作品を最初に聴いたのは、十六歳のころと思いますが、ほかの方は知りませんが、私個人としてはドビュッシーの音楽には最初少しく抵抗を感じましたが、ストラヴィンスキーの場合は、その音楽のすべてがきわめて妥当に思われ、この音楽がどうしてそんなに問題になるのかが理解できませんでした。きわめて強烈だといわれる律動も、私には快いものでしたし、和音も旋律もきわめて美しいと感じました。
それ以前にも種々な音楽に触れていたのですが、どれも何かいわゆる外国くさく、他人行儀で、ストラヴィンスキーの音楽に接して、初めてこれがひそかに自分が音楽と考えていたもののように感じられました。それでまことに愚かな恥ずかしいことですが、私はストラヴィンスキーのオーケストラを最初に聴いて、無謀なことに音楽にあってこのような観点が許されるのならば自分でもあるいは書けるのではないかと本気で考え、管弦楽法の勉強を始めたような始末なのです。そのころはストラヴィンスキーの総譜を解明、あるいは分析できる先生は日本にはおられませんので、また日本語で書かれた実用になる理論書とか技術書がまったくなかったので、仕方なくあやしげな語学を頼りに、洋書を取り寄せていろいろと読みあさらなければならないはめになったようなわけなのです。
これはあとになって感ずることなのですが、ロシアという国は、ジンギスカンの孫にあたるバドウという人によって一二四一年に征服され、以後、十五世紀の終わりごろまでキプチャク汗国として蒙古帝国の支配下にあったわけですが、このバドウの遠征軍は十五万といわれ、ロシアになだれ込んだときには、二十七万の兵士の鼻の先をすべて斬り落し、また婦女子をことごとく略奪したということですから、当然かなりの混血があったと考えられ、またそのあとに続く四百年近い支配とあいまって、文化観とか感性の上でぬぐうことのできない蒙古の大きな影響があったことは十分に考えられることなのです。
また一方、われわれ日本人にも現在目の一画に蒙古皺襞という顕著な特徴が残っておりますし、また赤ん坊の99%に見られるお尻にある青い蒙古斑というのがありますが、これらから推してもわれわれ民族が蒙古とかなり深い関連のあることは明らかです。
それでストラヴィンスキーの音楽語法が最初から私になんの抵抗も与えなかったというのは、このような点に原因があるのではないかと私は考えております。もっとも、ストラヴィンスキーの音楽にアジア的な要素が底流していることは改めて指摘するまでもないことですけれども、彼がより多くアジア的な美観に立脚いたしますと、どうもヨーロッパ的な教養だけが尺度となっている耳には、何か野蛮に聴こえたり、音楽的な教養の欠如に見えたりすることがあるようです。これは私は明らかな誤りだと思いますけれども、いたしかたのないことのようです。
これはストラヴィンスキーの和音処理にも時に見られるのですが、アルフレッド・カセルラも指摘しているように、これはヨーロッパの和音とは違った考え方が発想の基盤となっているわけなのです。さらに旋律にあっても短小な楽句の反復という形がしばしばとられるのですが、これは一般には舞踊音楽の影響といわれておりますが、それもあるでしょうが、私の考えではこれは主としてアジア的な嗜好のしわざであるように思えてなりません。
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最後に、これは実際に音楽作品を書いて苦しんだことのある方だと容易にわかっていただけることなのですが、江戸時代の画家に池大雅という人がおりますが、その弟子の桑山玉洲という人が、絵を描く上で師は何が一番むずかしいかという問いに答えまして、「紙上一物も無きところ最も難し」と答えております。これはまことに息をのむような名言で、もし狭く解釈するならば、日本画では絵の部分もさることながら、残された余白の処理がもっともむずかしいということです。これは絵の構図とも構成ともまた写真でいうトリミングなどというものとも違う、もっと深い、意味のあることばなのです。これはそのまま音楽作品にもあてはまることで、最後に決定した、すなわち書かれた音と、書かれてはいないけれどもその音楽としての小宇宙を形成するに関与している存在しない音との関連を見極めること、まあこれがもっとも困難だということです。この点でストラヴィンスキーは天性というか、ほとんど病的というほどの敏感な感覚を持っております。この信じがたいほどすぐれたあの感性が、すでに今この世になく、もはや新たなあの驚きと悦びに接し得ないということは名状しがたい感慨です。
音楽芸術 Vol 29, No6. p26-29. 1971. 音楽之友社 東京