・ここでは、伊福部先生が、音楽芸術誌1959年12月号「特集:東洋の民族音楽」に寄せたアイヌ音楽に関する論文を音楽之友社様の諒解を得た上で全文掲載致します。
・この論文は、アイヌ音楽の研究論文(article)というより概説(review)として書かれて居ります。
・伊福部先生が少年の頃から接してきたアイヌ音楽について、現在では接することの出来ない事項についての記述もあり、貴重なものであるといえます。伊福部先生の音楽学者としての側面を垣間見ることが出来るのではないかと思います。御高覧下さい。
・猶、原文を出来得る限り忠実に再現しましたが、原文は縦書きであり、横書きに改めるに際して、一部体裁と明確な脱字を訂正致しました。
・又、原文のルビは【】内に、適宜掲出しました。
アイヌ族の音楽
伊福部昭
アイヌ族の生活様式は其の生誕の唄 Osano sano Yai Yai から死亡の唄 Raishi chikara に至るまで其の一生が甚だ多くの音楽的な行事に満ちているのであるが、吾々が謂う所の『音楽』と言う語に相当する言葉は見当らない。音楽が単独に音楽として存在しているのは其の殆んどが歌曲なのであるが、此の歌曲、乃至は唄に該当する的確な言葉さえもない。勿論、
Shinotcha, Neina, 等の様な其れに近い種々な言葉はあるが、此等は夫々特定な形態と意味を持つもので吾々の歌曲と言う概念とは異なつている。又、踊りについても、 Horippa Hechiri, Rimse, Upopo, Tapkara, 等種々な語はあるが、此れも亦、夫々特定な意味をもつので吾々の舞踊と言う概念を総括する言葉ではない。
此の様にアイヌ族にとつては音楽とは、音楽の発生当初の様に詩と踊りと音楽が混然一体となつた形、即ちバラードとして受けとられているのである。此のバラードは其の性質に依つて甚だ多くの種別に分れているが、詩、音楽、舞踊と言う風な分け方はされてないのである。数多い雑多な現象を根元的な類似に依つてより単純なものに分類すると言うことをしないのは可成り原始に近い思考方法と言うことが出来るかも知れない。彼等と近接のギリヤーク族にあつても眼と言う単語がなく右向きの眼、下向きの眼と言つた工合に眼に関するだけでも全然別個の単語が数多く存在しているのと同様である。此の様にアイヌ族の音楽は混然たるバラードを形成しているので音楽に付いて語る場合当然言葉と踊りを離れて述べることは困難である。勿論、彼等の音楽の中には唄も踊りも伴わない器楽がある。それは
Toncori と呼ばれる五弦琴の独奏であるが、此れはトーテミズムの初期に現われた楽器の様に未だ人声の高低を真似る段階には至つていないと考えることが出来る。
独奏曲の題名を見ても Ikeri
sotte (化け物の足音) Shumari hum (狐の鳴き声) と言つた風なものに限られているのである。
以上は彼等の音楽と言うものの考え方と其の在り方に付いて述べたので或いは冷酷に響くかも知れない。然し実際に踊られ、唄われる彼等の音楽其のものの魅力は、私には終生忘れることが出来ないのである。
次に、彼等の音楽を声音に依るもの、楽器に依るもの、及び舞踊を伴う場合の三つに大別して其の概略を述べよう。
一、声音に依る場合
アイヌ族は文字を用いない民族であるが、其の言葉は吾国の文語、口語の様に四族の段階に分れている。日常普通の会話に用いられる様な種類の語族は Yayan Itak と呼ばれているが、此の語族に旋律が与えられて歌となることは絶対にない。日常語は音楽になるためには格が低いと考えられているのである。節づけられる語族は Sakoro-Itak (節付の詞) Yukar-Itak (叙事詩の詞) Rupa-Itak (散文の詞) の三族で此等は其の文法も構造も異なつている。
古いアイヌの生活にあつては、今日、吾々から見て通常の言葉で然る可きものと考えられる様な挨拶の交換もシラブルを調えた即興詩が節づけられて述べられ、日常語は用いられない。
又、争いごとを裁くことを Charanke と呼んでいるが、其の様な裁判の時でも日常語や散文の詞を用いず撥を持つて座を打ち律動をもちながら、
Sakoro-Itak が節づけられて謡われ、判決が下されるのである。
此の様に吾々から見れば到底音楽どころではないと考えられる雰囲気にさえ音楽が入り込むのであるから、働く時、悲しむ時、自然の風物に触れた時、其の他兎に角総てのことが一つのアリアを生む動機となり得るのである。
此の様な時唄われる歌を慰み (Shinot) の曲 (Sha) 、即ち、 Shinotcha と言いその唄い初めは何んの意味もない語が単に続けられ或るモティーフを掴むと其れが延々と歌われるのである。勿論即興のうまい詩が出来れば其れが歌われるのは言うまでもない。又若し其処に誰かが居合せたとすれば彼等は
Hōle, hole, 又は Holen-nah と言う掛け声をかけて、独唱者の霊感の活動を促すのである。此処で注意すべきは、各人の旋律がアイヌ族の音楽様式と言う点で似てはいるが、各個人に依つて皆夫々少しずつ異つていることである。
彼等は個人々々が出来るだけ他の人達と異つた独創の旋律を生み出そうとしているかに見える。又、此等の Shinotcha は各個人にあつて、悲しい時、得意の時と言う風に数種の形が大体定まつて、夫々独立した旋律をもつている。然し彼等の様に音楽的独創と即興に優れた才能をもつ民族でも時に他人の傑作を真似る場合も尠くないらしい。勿論、他にも歌うことの好きな民族のあることを知つている。然し、其等の多くは既に覚えている民謡を其の時の情景に即して口づさむのであつて、アイヌの場合とは甚だ異つている。私には、何の民族にも一度此の様な民族的年代の様なものがあつて、夫々民族に依つて異る民謡が生れ其れが定着したのではないかと考えられる。
音楽の発想と言う点から見れば前述の Shinotcha に可成り似たものではあるが別な様式に Yaishama nena と呼ばれるものがある。本来 Yaishama とは「自己を表現する」と言うような意で Yaishama nena は自己の心境を唄うと言う様な意味をもつ。
此の言葉が幾度も繰返して歌われている間に、うまい即興詩が出来ればそれが唄いこまれ、 Yaishama nena の語が其の詩と交互に延々と反復される。又不幸にして適当な詩句が思い浮かばぬ時は
Yaishama nena の言葉のみが反復されて終つて了う場合もある。又、時には唯一人で此れを唄つている内に次第に興がのつて涙を流し終には狂的になることも珍らしくない。此の様なものを Iyohaiochish と呼んでいる。
又、特に恋情だけを唄うものを Yaikatekar と呼んでいるが、其の本来の意は「自から物にとり憑かれた」と言うのであつて、所謂セレナーデの様なとりすました微温的なものではない。手近に人の居ない時なぞは、棒打れで其の辺りのものを打ちながら恋情の限りを訴え、涙を流し、更に嵩ずると到底人前では口外出来ぬ様な言葉と動作に打ち狂うのである。
勿論、総ての唄が此の様に狂熱的なものではない。肉親の死を悲しむ
Raishichikara は真に名状し得ない程に悲しいものであるし、火の神 Fuchi kamui を祭る祈りとか、儀式に関連する唄は総て極めて古代風な荘重さを備えている。又、子守唄は Ihumuke と呼ばれているが此も亦美しい歌の一つである。ちなみに子守唄は母親が自分の子に唄うものを Anek-suikii と呼び、他人が子供をあやす時唄うのを Erek-suikii と言つて二つに分かれている。
次に一般には音楽であるかの様に考えられているものに Yukar がある。此れは前述の Yukar
Itak にて語られる伝説や物語であつて、総ての人が出来るのではなく伝承者が定つている。又、其の物語りの中で神々に関するものは特に
Kamui-Yukar の名で呼ばれ、其れ以外のものを単に Yukar と呼び、地方に依つては此れを特に Oina と呼ぶ場合もある。文学上の見地からは極めて重要なものであつて、フィンランドのカレワラ等と共に甚だ著名である。此等は語られると言つても、勿論日常語の様に話されるのではなく一定の節づけがある。此の節をも亦 Shinotcha と呼ぶが其れに基いて拍子をとりながら語るのである。伝承者の語り方には地方に依つて差異があるが、其の際立つたものは、炉辺に仰臥し左手で両眼をふさぎ右手に撥を持つて拍子をとりながら物の化に憑かれた様な風体で語りつづけるのである。従つて
Yukar の伝承者と言うのは吾国の語部の様な役割をもつているのである。
此等の他に歌ではないが、二人の女性が互に口を近づけ此れを両手で囲んで両者が奇音を発しながら其の共鳴を楽しむ
Rekutkara と呼ばれるものがある。此れは言葉にも何んの意味もないので一種の音の遊びと見るのが妥当であろう。
二、楽器に依る場合
アイヌ族は余りに唄が好きであるためか唄に比し楽器の発達は甚だ遅れていると言うことが出来る。 Upopo なぞを唄い踊る場合も多くも多くは Shintoko と呼ばれる酒槽の蓋を叩くか、手拍子が行われるのみであるのが一般である。
楽器として最も進んだものに指先で弾ずる五絃の琴 Tonkori と呼ばれるものがある。――此れに似た名称に Tonkuru と言う楽器があるが、これはギリヤーク族の一絃の弓絃楽器で Tonkori とは全々別種のものである。――舟形をした、長さ四尺程の共鳴胴の上に五絃が並列し、其れが一端にある絃蔵【イトクラ】を通って右二個、左三個の別々の糸巻きに捲き込まれている。又、共鳴胴の両端に、五絃に共通な幅広い二つの駒があつて絃は其の上を走つている。調絃の絶対的音高は無いらしいが、一般には
La-Re-Sol-Do-Fa の四度関係に調絃される。 Tonkori-Hechiri と呼ばれる踊にあつて伴奏楽器として用いられるが、此の楽器のための独奏曲も数多くつくられている。然し、此等の独奏曲は吾々の考える器楽とは異つていて、主に実在の或は架空の音響を偲ばすために用いられるかの様である。次に曲目の一、二を掲げると
Chisomari yakkari hum 檻の中の熊の足音
Ikerisotte 化け物の足音
Ketachiri hafe 白鳥の声
Rekutkara irette 奥喉の音
Kacho tata irette 太鼓の音
Ikeuri humihi 木斧の音
と言つた風なものなのである。此処で注意すべきは、其等が私達の想像と異つて全然それらしく聴きとれない点である。即ち、彼等は一見擬音を狙つている様で、其の実、其等は一度或る観念又は、一種の約束の様なものを通過しているらしい。最近の前衛的と呼ばれる作品にあつて、何んのために其の様な題名を附したのか理解に苦しむ場合があるが、その様な時私はいつも此の
Tonkori の演奏を思い起すのである。
又、千島系のアイヌは Harariyaa と呼ばれるウズベック地方の Tanbur に酷似した指板のある三絃琴をもつている。が、私は此の楽器がどの様な曲をどの様に奏するのか知らない。又、彼等は他のアイヌとは異つてギリシャ旧教に近い宗教をもつているので古い時代に何等かの交流があつたのかも知れない。尚、次に述べる、
Mukkuri と言う楽器も千島系のものは他に比し際立つて小型である。
次に Mukkuri (Mukkuna,
Mokkuru) と呼ばれる口琴がある。竹製と金属製の二種があるが共に同一の名で呼ばれている。其の形は、金属製(鉄)のものでは二本足の大型の簪の様な形をし、其の又の根元から弾力のある一枚の鉄製の簧が足の長さまで伸びている。此の楽器全体を口唇に当て、或は啣えて其の簧を指先で弾じて口腔に共鳴させるのである。又、竹製のものは
Armonium の一個の簧と其の台座を拡大した様なもので簧の先に長い糸を附し、此の糸に依つて其の簧を操作するのである。此の楽器は、南太平洋の諸島が発生地ではないかと考えられているが、世界中の殆んど総ての民族がこれを持ち、又、其の名称が悉く其の民族特有の発音様式に同化されている点で伝来の楽器と言う感が全く無いが恐らく極めて古い時代に世界に流布したものと思われる。東洋と西欧で似て居る稀な例としてフィリッピン・タガログの
Barimba. Barimbo がスペインに移入されて、 Birimbao, Verimbao となつたのを掲げ得る程度である。アイヌと同地域に住むギリヤークもこれをKwon kwon (台湾ブヌン族と同名) と呼び、オロッコは Muhonyu と呼んでいる。
此の口琴は、勿論吾が国にも実在していてビヤボンと呼ばれていた。其の音が琵琶の弾音に似ているので琵琶笛【ビハブエ】と名付けられ、其れが訛につてビヤボンになつたと考えられている。世事百談 (天保) に『文政甲申の秋、児童のビヤボンと言う鉄にて造りたる笛を専ら翫ぶこと行われたりしが、其笛は、其の頃はじめて造り出したるものにはあらで、昔より辺地などにはもてあそびしものとぞ』とあり此の楽器が、中央に進出するにつれて当時の水野出羽守を諷刺した『ビヤボンを吹けば出羽【イデハ】、ドンドンと金【カネ】が物言う今の世の中』と言う歌が流行するに至り、此れがお上の耳に達し、終に文政八年
(1825) 二月此の楽器の使用が一切禁ぜられた。以来、吾々は此の面白い楽器を失つて了つたのである。
アイヌ族に於ける此の楽器の奏法の基礎的なものは Lui lui He he (此の語には意味はない) と呼ばれ、これを延々と繰返えすのである。又、前述の Tonkori の場合と同様に独立した曲名もある。
Nitashipe
hafe 海馬の鳴き声
Ikeuri
hafe 斧で木を削る音
Niinasa
humihi 薪を割る音
Kapo 馬の足音
其の他種々のものがあるが吾々には各曲間の差違も定かには見分けることが出来ない。吾々にとつては当人だけが其の気になつているのではないかと疑い度くなる程である。更に神がかつたものでは『山の神が自分の子を抱いて唄う子守唄の響き』と言うのさえあると言う。
次に彼等はアザラシの皮を張つた片面の太鼓をもち、 Tun-tum, Tous-aino, 等と呼んでいるが吾々の予想に反して踊り等には余り使用しない。唯、シャーマンの祈祷者が神の宣託を得るために、次第に異常意識に入り込んで行くが其の場合此の太鼓の音は一種の媒介として欠くことの出来ないものであるらしい。此の様な場合、シャーマンの太鼓は
Kacho と呼ばれシャーマンに神が乗り移つて彼が宣託を述べ初める時には既に打ち止むのである。
又、楽器と言うには余り原始的なものであるが Pekkutsu rette と呼ばれる笛のようなものがある。ボーナと呼ばれる植物 (和名、ヨブスマソウ Cacalia
hastata, glabra) の中空の茎を四五尺に切り、其の細い方の端より声音を金管楽器を奏する場合の様に唇を用いて吹きならす。幾つかの自然倍音が管茎と管長に比例して響くのであるが主として子供が行うので成人の奏しているのを見たことはない。
三、踊りを伴つた音楽
曩に述べた Tonkori-hechiri と呼ばれる踊りの場合は名の示す様に Tonkori が用いられるのであるが、其の他は殆んど、声音と手拍子、又は酒槽 Shintoko の蓋などが律動楽器として使用されるに過ぎない。
踊りには Horippa, Hechiri, Upopo, Rimse, Tapkara 等の区別がある。Horippa は飛び跳ねると言う風な意をもち、 Hechiri は遊ぶと言う意に近い。踊り其のものも此の言葉の様な差違をもつている。 Upopo とは湯が沸く様に騒しくと言う様な意で早口に唄われるものであるが、必ずしも踊りを伴うとは限らない。 Rimse が吾々の云う踊りと言う語に一番近いであろう。 Tapkara は男性の立ち踊りで、両手を前に差しのべ腰を落して両肢を踏み鳴しながら舞うのであるが、儀式の時に行う最も重要な踊りである。
彼等は唄うことと同じ様に踊ることが好きであり、又踊りは、生活、儀式等の重要な一部となつている。其の甚しい例では、女達が二組に分れ、其の何れかが本当に疲れ切つて倒れて了うまで踊り狂う競舞 Arafukkun, Fukkun
choi と呼ばれるものさえある。
此等の踊りにあつて、共通なことは、一般に腰、膝、腕、首と言つた大きな部分の直線的な動きが主で其等が展開、発展すると言うことは稀で、幾つかの動きを執拗に反復して次第に興奮に導くと言う手法をとつている。音楽も此れと同様に、一つの極めて短少な単純な動機を延々と繰返えすのであるが、此等は反復すること其れ自体に重要な意味があるのであつて、其の動機だけを取り出しても其の魅力は理解し難い。
此の執拗な反復と言うことは唯に舞踊の場合の音楽のみでなく歌謡風な長い歌にも見られる一つの特長である。古くから隣接して居た吾々の民謡に此の様な短小な楽句の反復が余り見られないのと顕しい対照をなしている。――吾国にあつても神楽の笛などに同様な反復の形式があることは言うまでもないが、茲では唄われる民謡について比較している。――
彼等の音楽は、吾々の伝統音楽と同様に、仮令多人数で唄う場合でも和音の意識は無いらしい。従つて彼等の音楽が
Homophony でないことは殆んど確実である。又、 Sarorun Rimse 其の他の場合に歌の声部の他に Kororo・・・・・・ 等言う風な半音階に近い下降の別の動きが用いられるが、此等は鳥の鳴き声等の模倣であつて、多声音楽の朋芽と見ることは出来ない。従つて彼等の音楽は雑多な唄声が混じり合う場合もあるが Polyphony でも無い。即ち彼等の音楽は他のアジアの民族と同様に Heterophony なのである。
又、彼等の音階は、一般に半音音階であると言われているが、 Sakoro Itak, Yukar Itak 等は半音より小さな音程で飾られることが珍しくなく、又 Yaishama nena 等にあつては、完全な五音音階を示しているので、今茲に彼等の音階が何の様なものであるかを決定するのを避けたいと思う。此等に関しては更に多くの研究を要しよう。
又、彼等のもつている律動感は、屡々アクセントが移行する場合があるが底流しているものは二の倍数であるらしい。
茲に幾つかの譜例を掲げ度いと思つたが既に述べた様に其等は反復と特殊な唄い方に依つて生命が生れるのであり、又此の様に単純なものを楽譜になおすと恰度、美しい海草を海から採り上げた様に採り上げた瞬間に其の総ての美しさが失われ又全然別なものの様な印象を与えるので是を行わなかつた。諒とせられたい。
附 記
アイヌ族は極めて誠実な又温厚な種族であるが、長い間、吾々和人 (彼等は吾々を和人 shamo と呼ぶ) の無法な取扱いに苦しめられたために、吾々に対して極めて根強い反感をもつている。可成り長い交際と更に特別の好意を持たぬ限り決して本当のことを語りも唄いもしない。然し彼等は劣弱感をもつているのではなく、吾々を寧ろ信用していないのである。私が少年の頃父と一緒に彼等の酒席に侍つたことがあつたが、彼等は父に貴方は本当に和人かと問うた。父がそうだと答えると、彼等は憐憫の情を示しながら『Shamo には惜しい』と幾度も繰返し語つたのを忘れ得ない。又、戦時中、日高で或る会合の後、彼等の内の一人が『和人は十人寄れば、其の内九人は全然馬鹿だが、あの様な馬鹿はアイヌには居ない』と私に静かに語つた。又、終戦近く、イタリアのバドリオ政権の寝返りの報ぜられた日、私は日高の二風谷と言う彼等の部落に居合せたが、彼等は毛だらけの胸を打ちながら、南の方の種族が如何に信頼の置けぬものであり、又、愚劣であるかに付いて力説した。此れには吾々和人に対する諷刺もあつた様であつた。其の時、彼等の語つたローゼンベルグの『二十世紀』の神話にも比すべき話を今も猶忘れることが出来ない。
音楽芸術 Vol 17, No13. p.16-21. 1959. 音楽之友社 東京
特集「東洋の民族音楽」