雑司が谷の伊福部昭/第五回;伊福部ゼミ
池袋にある大型書店の洋書売場には、日本に関する本が、分類棚にまとめてたくさん置かれている。それらのタイトルをながめると、外国人向けの日本(=禅、武道、茶道、京都など)が大まかではあるが見えてくる。
かつて岡本太郎は縄文時代の火焔土器を礼賛したが、日本には、古墳時代の埴輪や古墳、奈良時代の大仏や寺院、世界最古の長編小説「源氏物語」、4メートルの突棒を僧侶17人がかりでぶつけて鳴らす京都知恩院の梵鐘、江戸時代の長大な歌舞伎の演目等、スケールの大きなものあるのだが、外国人に日本の伝統文化を語るときには、そうしたものよりも、禅や茶、<侘び>とか<さび>とか、とかく<静>の面、精神面が強調されることが多い。当時の作曲界には、非ヨーロッパ的インパクトを求めて、そのような<静>への傾向を示す曲が多かった。
70年代、伊福部はそうした傾向にあった現代音楽を「気が利いていて一見美しくもあるが、結核療養所の花壇のようで、何かが足りない。それは力と量と生活である」と揶揄した。また、作者の意図や編成の大小にかかわらず、特に時間のコントロールが感じられないような作品に対しては「ゴセックのガボットの方がいいですね」と意表を突くような一言で片付けた。
作曲をもし陶芸の作陶に例えるなら、ありきたりのつまらない茶碗を作るのが一番難しく、個性とかオリジナリティーとかいうもので頭がいっぱいになっていると、それらが邪魔をして、もはや茶碗ではないものまで茶碗であると称する、というようなことが起こるものだ。また、当時はそうした新奇な奇を衒うようなものだけが持てはやされるという時代の風潮もあった。
芸術にはいつの時代でもその両輪であり両極でもある「浪漫主義」と「古典主義」があり、学問には「理論」と「実証」が、哲学にも「形而上学」と「経験主義」とがある。伊福部はと言えば、もちろん後者で、作品もそうだが、正にそうした古典主義的思考と科学的実証精神とによって、名著『管絃楽法』(上巻1953、下巻1968、完本=2008)は生まれたと言える。
南米ペルーのナスカの地上絵のように全く単純な線で描かれたハチドリの絵が、上空からでないと分からないほどに拡大されると、次元を超えた新たな美が生まれる、ということもある。伊福部の音楽もモチーフは単純だが、ナスカの地上絵に似たところがあって、いわゆる日本的<縮小>ではなく大陸的<拡大>であり、古池の<静>ではなく流氷に揺れるオホーツクの<動>、そして能の<幽>よりも歌舞伎の<華>に近かった。「渋いとか、粋だとか、又、幽玄だとかは日本人なら誰でも容易に到達できる境地で、これを超えて静かな中にも華やいだところがなければならない」、と「結核療養所の花壇」の時の間接的表現から一歩踏み込んで、より直截的な言葉で語ることもあった。
東京音大の作曲のクラスにゼミナールを持ち込んだのは伊福部で、レッスン棟最上階のB1102という、ベーゼンドルファーの置かれた明るいサンルームのような教室で行われていた。機能和声の時代は終わり、言わば中心音が有るか無いかの時代になっていた。学生から無調について見解を訊かれたことがあったが、伊福部は「これまでの12の調の次に13番目に出てきた調という程度のことで、音名で言えば<ハニホヘトイロ>に<ム>がひとつ加わっただけ。ハ調もあれば、ト調もある。そしてム調(=無調)もあって良いが、それが全てではない。順番で言うと13番目となり、13は西洋では縁起の悪い数字ですよ」と答え、目に笑いを浮かべた。
また、作品における民族性を主張する伊福部に、和田薫が「我々は小さいころから西洋音楽に親しみ、洋風の生活様式の中で暮らしている。自分の中に日本人としてのアイデンティティーを見付け出すことは難しいことなのでは‥‥」と質問したこともあった。伊福部は「どんなに洋風化された家に住んでいても、日本人は家に入るとき、必ず靴を脱ぐ。そのこと一つを採っても、我々は充分日本人なのである」と応じた。和田はいくつかの作曲コンクールに入選するなど、在学中から既に注目を集めていた。
そんなゼミの教室に、「やあ、伊福部先生!」と山本直純が片手を大きく挙げながら顔を覗かせたことがあった。山本直純を有名にしたのは作曲や指揮の業績以上に、森永チョコレートのテレビCMで、「大きいことはいいことだ」と派手なパフォーマンスで、そのタレント性を発揮したからで、彼を知らない人間はいなかった。直純が去った後、伊福部は「大きいことはいい事だって言っている人ですね?」と一言。そして何事もなかったかのようにゼミを続けた。直純と伊福部とのこの奇妙なコントラストが、<単なる時代の寵児>と<静かに歴史をつくる芸術家>と言ったら不謹慎で大袈裟だろうか。逆に伊福部の動かし難い存在感というものを、感じさせた一瞬であった。
TVコマーシャルには、ほかにもネスカフェの「違いがわかる男のゴールドブレンド」というのがあって、メーカーが作家や建築家など、当時の文化人と言われる人達をそのCMに登場させていた。こちらは直純の時のような悪乗りの演出ではなく、登場人物の肩書きと名前、それに年齢までもが紹介され、先程のキャッチフレーズをバックに、その人物がゆったりとした表情でコーヒーを飲むという筋書きであった。伊福部は『所詮はインスタント。鋭敏な感覚を大切にする筈の作家が、「違いがわかる男」などと言われて、収まっていたのではダメですね』とそうした芸能人化した文化人を遠くから見透かし、呆れながらもそんな時代の虚像を眺めていた。
ゼミでは記譜についての話が多く出た。学生は出版された印刷譜を見慣れていて、手書きの譜面をほとんど見る機会がない。書くという最も基本的な方法に関しても伊福部は丁寧に教えた。
オーケストラスコアーの書き方、そのパート譜の書き方、その時の五線紙は何段のどれを使うか、鉛筆の芯の研ぎ方、清書するときのペン、インク、定規、デッサンの時と清書の時とは違う五線紙の裏表の使い方、それから、鉛筆の芯ホルダー、芯研器、消しゴム、それらの筆記用具一式すべてを、まるで自身をまな板の上に載せるかのように紹介した。まさに論語にある「我れ其の両端を叩いてつくす」(知っていることはすべて答える)そのものなのであった。
伊福部は天衣無縫の棋士、坂田三吉をモデルにした映画『王将一代』(1955)の音楽を手がけたことがあったが、音符の書き順に関して、その坂田三吉を例に出したことがある。彼は読み書きが全く出来なかった。自分の名前を書くのに、最初に横棒を7本並べて書き、うえの三本はそのまま<三>、四本目から五本目にかけて真ん中に縦棒を入れて<士>、六本目と七本目の左右にそれぞれ縦棒を加えて<口>として<三吉>とした。伊福部は話をしながら黒板に、横棒を先に、後から縦棒を加えてその通りに書き示した。「結果、三吉と読めるが、楽譜に関して、もしこのような書き方をしたらおかしい。プロとして正しい書法、記譜法というものを識っていなくてはならない」のだと。印刷譜ではこうだが手書きではこうなるとか、ちょっとしたことなのだが、例えの面白さもあって、大いに納得させられた。
筆記用具に関して伊福部は特に上質のものを吟味して使っていた。そして更に芯ホルダーのグリップに革を巻いたり、象牙の筆軸をくっつけたり自分流によくアレンジをしていた。自分の手に馴染む愛着の持てる道具を使うことで、少しでも仕事を楽しくしようとする考えもあったのだと思う。そのせいと言うことではないが、伊福部の手書きスコアは実に美しかった。
▲伊福部ゼミ(1984年)
胡弓を弾いているのは東方歌舞団の張暁輝、ピアノはベーゼンドルファー。
伊福部の後方右から和田薫、林冬樹、津田泰孝、一番後ろに今井聡がいる。
ゼミの帰りに学生を誘って喫茶店に行くこともあった。伊福部は学生が教室では遠慮して訊けなかったことなども、コーヒーを飲みながらなら話しやすいだろうと、遠慮がちな学生にも配慮しての、ゼミの続きという意味もあった。一方伊福部からは「西洋がギリシャ・ローマに文化・芸術の起源を求めるように、日本人にとってのそれはインド・中国である」とか、「西洋はアジア大陸の一つの半島に過ぎない」とか、スケールの大きな、時に笑いを含んだ、いわゆる日本的な<侘び・さび>、前衛の常套句でもある<間・空間・沈黙>などとは全く別の、伊福部ならではの豪快な話を聞くことができた。
ある日、ウエイトレスがコーヒーをテーブルに置くときに伊福部が別に注文していたホットミルクをこぼし、伊福部のおしゃれな服に掛けてしまったことがあった。あわてるウエイトレスに伊福部は「大丈夫ですよ。この年で乳臭いというのもシャレてるから」と笑って、一瞬緊張が走ったその場の空気を和ませた。こうした時でもウィットを忘れないのが伊福部なのであった。
以下続