作曲 雑感/第五回

ⅷ. 楽案の尾、音楽の尾

 尾とは音楽のお尻の部分のことです。

 

 運動を終わらせる為にはブレーキが必要なのは音楽も同じです。では、どうするとそのブレーキの効果が聴覚的に音楽的に出るのかを音の強度と運動の観点から考えてみましょう。

 

【唐突に終わる】 これは不意打ちの終わり方です。ちょっと乱暴ですが、時に効果的な場合があります。

【減衰して終わる】 これは日没のように段々と消えて行くフェードアウトの方法です。

【激高して終わる】 これは上り詰めた熱狂で終わります。

【素材の構成の「変節」で終わる】 これは素材に手を加えることで更なる終結感が生まれる手法です。

この【素材の構成の「変節」で終わる】について掘り下げてみます。

 

 一番簡単なのは、楽案の尾の部分をそっくり繰返す方法です。例えば最後の2小節を繰返して、また、さらに最後の1小節を繰返すとか。つまりそれまでの「流れを裏切る」ことで、「変節」を聴衆に感じさせる訳です。つまりAB,AB,AB…と流れて来た素材を、たとえば…ABBとする方法です。素朴な童謡などでもよく使われる手法です。これは短歌(5・7・5・7・7)や長歌(5・7・5・7〜5・7・7)と同様の手法と考えられます。

 

 つぎに素材の提示の順番を変える事で変節とする方法。ABC,ABC,…ACBと入れ替えてみたり、ABC,ABC,…ABXや、ABC,ABC,ABBAX)、ABC,ABC,…CBAとしたりする作業でした。素材によって可能性が全く異なりますし、更に応用して複雑にもできます。この変節ふと空気の香りや風向きが変わるような季節が変わったかのように「あら、どうしたのでしょう?」と聴衆に感じさせる事が一般に音楽のブレーキの効果になることに触れておきます。この方法は最後に一度だけ使うカードとして残しておかなければなりません。部分的な尾尻や、全体的な尾尻でも使えるはずですが。堪えて使用しましょう。

 

 文学では更に複雑な終結法がありました。少々前出の「山場」との関わりがあるのですが、20世紀文学の流行は総じて結末(山場も)を薄める、弱くすることでした。これをオープン・エンディングと呼んでおります。古典では明確な結末(クローズ・エンディング)が多かったものですが、その反動だと考えられております。また、民族性によっても結末の濃淡への好みがあるとする分析もされております。一般的な概念として全体性重視の西欧と、部分重視の日本という図式があります。歌舞伎や浄瑠璃など部分上演が当たり前で、伝統的日本文学では部分の味わいを尊んで、連続小説や連載小説というものもあって、結末に寄せる意志が弱いのが特徴であると考える向きもありますが、一方で「落語」(や「御伽草子」)という「落ち」に集約される語りの伝統がありますから、一概に伝統的な様式がどちらかとは言えないのでした。近代の文学では小説という概念の確立と共に「結末を製造せぬ人生は苦痛である」とした夏目漱石などの西洋の様式を意識した文学運動以来、結末への意識が強くなったと考える事が許されて、三島由紀夫は「結末が確定して、初めて書き出せる」と語りました。一方で欧米文学の近代では日本と逆行した様式がモダンな流行意識となったとされます。

 

 小説の終結の分類の一例を参考迄に記すと、大江健三郎は『「雨の木」を聴く女たち』では、ある一節が何度も出現しながら終わる変則的な手法の【平行終止】があり、いつ終わるとも分からない川端康成の『千羽鶴』や『雪国』のような【不完全終止】があって、更に究極的スタイルの「日記文学」というものもありますが、日記音楽という芸術概念は考え難いものです。安部公房の『砂の女』のように末尾が起首と呼応して円環を成している【環状終結】。終末で新しい人物が登場して、物語がまだ続くと思わせながら終わる【切線終止】(ジッド『贋金つくり』、川端康成『浅草紅団』など)、作品の末尾に新しい小説に続く意志を置く【接続終止】(三島由紀夫『春の雪』、ドストエフスキー『罪と罰』など)があります。環状終止と平行終止が強く、他は弱い効果の分類になると考えられます。

ⅸ. ソナタ形式について

 ソナタ形式の命題については、多くの作曲家が今日迄民族を越えて腕を競いました。クラシックと呼ばれる領域以外の作曲家にはその価値をあまり顧みられてないスタイルではありますが。しかし、あれほど山程の作曲家を熱狂的にさせた絶世の美人ヴィーナスの「カタチ」つまり、作家を熱狂的にするに値する形式感、形式美が「ソナタ形式」という「カタチ」にはあるという意味に理解する事が出来るのでした。では、何がソナタ形式の魅力なのでしょうか。ストイックな限定と解放との綱引きが、ある意味での音楽としての生命力の鼓動と知的な遊戯を強調して来たのかも知れません。そして舞曲やマーチなどの単純形式の楽章との「対比」としての位置付けになるのでした。ストイックなソナタ形式に対する開放的な2楽章3楽章に配置される単純形式の舞曲等の関係性は音楽愛好家の宝物としての気楽な対比の姿なのでしょう。

 

 ソナタ形式には快感点になる「再現部」の妙というものがあります。再現と言う言葉から分かる通り後半の目玉でもあります。「ようやく再会叶った親友への感慨の表明」となる場所でした。ここの設計からソナタ形式の作業が始まると考えていいはずです。

 

 一方で、あまりのソナタ形式への固執は作家のマンネリズムにも帰結することになって、現代的な多様で多彩な様式からは古びているとする考えもありますが、しかし未だにソナタ形式に寄せる情熱も冷めていない作家も当然居るのでした。勇気在るマンネリズムは時に美しい姿を呈するものです。それを「風格」という言葉で称揚する詩人も在るのでした。

ⅹ. 音楽の求める形

 結論を申しますと、音楽とは或る形式を前提に音楽を形作るのでは無く、音楽自体が様々な形式の中から結果的に一つの形式を選んだつまり、音楽の内容も形式も分離させて考えない姿が、音楽のカタチの恐らく正しい決着、終着なのでした。ヴァレリーは「漠然と形式と内容を対立させることの愚」という言葉を残しています。

 

 良い音楽の理想とは「聴き手にとっての印象が、統一がとれていて音楽的な興味の持続に十分応え、心象として長過ぎない作品」で、「演奏者にとっては、パートやパッセージが過不足なく、充実した演奏感覚と、音楽的な浄化を満喫出来て、適度な疲労感を覚えるもの」で「作曲者にとっては、微妙なパッセージが難無く運び、手品のように釣り針や様々な作為的な仕掛けが最後迄露呈せず、当初のイメージの実現に、ある程度の満足感を得る事の出来る音楽」そんな作品だと思うのでした。 

xi. 音楽の心理的効果とドラマ

 音楽の心理的効果というものがあります。伊福部昭の管絃楽法でも語られていることですが、これは劇音楽を書く時によく利用されるものですが、最初に前置きした音楽の連想に繋がっているものでもあるので、少しそれについて述べてみましょう。

 

 まず、音楽の3要素(旋律、和声、律動)に対応する心理があります。「旋律」は情緒や叙情に、「和音」は瞑想や思索に、「律動」は肉体的な運動性に対応するイメージです。一つの要素では音楽が成立しませんが、3要素の内のどれかが強調されているはずです。

 

 次に作曲の専門用語を使いますが、「音量」を音の量感(個数)として、「音勢」を音のもつ強さ、緊張の度合い(パワー、出力)を示すとして、「オーケストラ全合奏で弱音」の場合を「音量は大きいが、音勢が小さい」と言います。そして「一つの独奏楽器で強い音」の場合を「音量は少ないけれど音勢は大きい」という言い方となります。この組み合わせで4つの心理効果が出来上がります。

 

【1】音量が大きく音勢の小さい時は、「平安、静寂、温和」な感覚を与える。

【2】音量が小さく音勢が大きい時は、「鋭角的刺激的」な感覚となります。

【3】音量と音勢が共に小さい時は、「繊細、薄弱無気力」な感覚となります。

【4】音量と音勢が共に大きい時は、「壮大で強烈」な感覚となるものでした。

(『完本管絃楽法』/伊福部昭著より)

 

 以上のことを、劇音楽を制作する時に念頭に置いて作曲するものでした。まず、単純にこのことを念頭に置けばそれ程画像を裏切るイメージにはならないはずです。

 

 これはあくまでドラマを主体として、どんな音楽が附随するのかという問いに答える内容ですが、音楽を主体に考えて、そこに最初に芽生える作曲者の心情があって、今どんな表現をしたいのかを具体的な音楽の内容の青写真の役には立つのも知れません。少なくとも楽器の構成や編成での間違いは起らないと思うのでした。「壮大なイメージ」を実現しようとする時に「小さい音量と少ない音勢」を採用することは、余程の別の特殊な意図が無い限りあり得ないのでした。

 

 もう一つ、劇音楽について触れましたので、余談ですが、ドラマと音楽の関係性について簡単に書いておきます。劇音楽には、凡そ、インタープンクト(同質性)とコントラプンクト(非同質性/対位法)の2通りの選択方法があって、これはドラマの生成と強く関連して、選択されるものでした。これらは視覚心理学の用語ですが、劇音楽の説明にも好都合なので映画の現場でも良く使われます。

 

 譬えてみますと、ここに物語の終末部分に「喜劇役者の死の床」の場面があるとしましょう。そこで流される音楽が、「死」をテーマとして悲劇的連想の出来る音楽を選択する事をインタープンクトと言い、「喜劇役者」であることで、死の場面で喜劇的な連想の可能な音楽を流すことをコントラプンクトと言います。どちらの選択が正しいのかはドラマの時間の流れに左右されますが、単に喜劇役者の人生の終焉とするドラマの最後の場面の場合、後者の作法の方が物語の結末としての深みが出て来る事は想像に難くありません。もしドラマの冒頭に配置された「喜劇役者の死の床」でしたら普通に悲劇的な楽案で済むでしょう。ドラマの読み取り方で音楽の選択肢が刻々と変化して行くのは映画やお芝居に附随する音楽の面白い所です。

 

 もう一つ映画音楽について触れておきますと、映画で音楽が出来る事は4つしかないということでした。これはロシアのスタニスラフスキーやフランスのJ・オーリックの論を元にした伊福部昭先生から頂いた説です。

 

【1】時空間の設定 〈(楽器や旋法の選択による)時代、国籍、地方色の設定。〉

【2】ドラマの感情背景の表現 〈ラブシーンや様々な感情の表出場面、等〉

【3】シークエンスの確立 〈複数カットによる連続したシーンの抽象的意味での空気や温度、ドラマを定着させる手段として。例えばマーチが流れているということで体育大会や運動会の場面である事を定着させるのです。〉

【4】映像的特性効果によるフォトジェニー 〈映像的な面白さを音楽で強調する。例えば画面一杯にドカンと富士山を写した時の音楽です。〉

 

 以上の効用しかないそうです。最近の日本映画やテレビドラマはダラダラと無駄な音楽が多いと感じるのは筆者だけでしょうか。ちなみに「描写音楽」、「説明の音楽」、「雰囲気の音楽」、「ドラマツルギーを共有する音楽」の順で表現のクオリティーは深く成るというのが伊福部昭先生の考え方だったようです。

 

以下続

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