作曲 雑感/第三回
ⅲ. 作曲の方法
まず。作曲には教えられる事と、教えられない事の二つの領域があります。教えられない事。それは実は作曲の技術そのものでした。画家のピカソも「メチエ(技巧)は教わる事が出来ないものだ」と助言しました。また、「技術とは個性に他ならない」と述べたのはオスカー・ワイルドでした。恐らく世間の音楽大学を目指して作曲を勉強する学生さんですと、和声学と対位法を専門の先生に師事して勉強するものです。西洋の音楽の理解の為には必修の勉強ですし、当然、音楽大学の受験科目にもなっております。
しかし実は作曲とは全く別の学習なのでした。その禁則を会得しなければならない学習がかえって自身の作曲を制限してしまうことすらあるものです。禁則を知れば知る程、その知識が仇となり悩ましい状況を生み、そのジレンマで惑う学生もおりました。作曲に禁則などありません。笛と太鼓があればもう立派な音楽になります。太鼓一個でも十分。生物学で、人間で無ければ生命じゃ無いと云う人は居ないと思います。ナメクジだって蟹だって完成された生物です。ただ、ここで高等下等の差別を付与されることがありますが、それは人間の勝手な物差にすぎません。5億年も種を保存しているのはゴキブリであり、粘菌は脳も脊椎も無いのに、迷路で餌への再短距離を辿る事ができることが証明されております。生命は等しく個性的な存在なのです。音楽も同様に考える事が出来るはずで、対位法がないとか、和声が欠落していても音楽になる可能性は十分あるものなのです。
音楽は、歴史と伝統、そして民族や文化によって、まったく別個な実存を持つ芸術となるものなのでした。先の和声学と対位法はドイツ、オーストリアを中心としたヨーロッパ・キリスト教の宗教域を中心とする音楽を理解する為の道具でした。アフリカや南米には律動の多彩な音楽がありますし、アジアでは音楽の垂直的な現象において西洋よりも複雑な和声や様式、ヘテロフォニーというメロディーの多重効果、多彩で複雑な旋法(長音階や短音階などにとどまらない)があります。オクターブを12以上に分割したものや、中国にはかつて360に及ぶ音律なるものもあったそうです。ここではもう西洋の和声学は意味を失います。
つまり。和声学と対位法とは西洋の音楽を解析する為のツールだと思っていいでしょう。
勿論西洋の和声学や対位法の学習抜きでは作曲家に成れないとする考え方、音楽教育論が根強くありますし、習得することは無駄ではないでしょう。便利なことも勿論あります。ただ、自身の音楽の作曲とはまた別個な宇宙のツールであることを念頭に置くべきです。つまり和声学や対位法は作曲の勉強ではないのでした。ほんの作曲法の外堀に過ぎません。教えられる作曲法はありません。ただただ書きましょう。辛くても自身で選んだ好きな道でしたら書き続けましょう。
ⅳ. 音楽を書く
では、何を書けば良いのか?
その答えは実に実にパーソナルな問いかけでした。つまり、自由に書きましょう。それ以上のメッセージは無いはずでした。書きたいものがあるならば必死でそれを音楽にするべきです。恋愛のようなもので、その対象を不朽にしたければ自身に忠実に表現を完璧にするだけです。その完璧の意味は、自分自身の表現の厳密さに於いての完璧の意味です。書きたいものが無ければ大人しく筆を置きましょう。
結果的にその作者の民族血族、氏素性が記されているような自身の固有な音楽を見つける事が理想です。自分の持つ地方色が音楽を独自な存在にしてくれるかも知れません。逆にコスモポリタンであろうとすることは前衛的であろうとするのと同種の危険が伴うものです。
あとは、毎日ピアノの前に座って一つの音符でも書くような習慣が大切かもしれません。ある意味では作曲法の大原則かも知れません。習慣が壊れますと益々書けなくなるのが私の経験でした。
では、教えられる事とは何かと言いますと、それはまずこれから述べる「記譜法」であり、音響物理という科学に支配される「楽器法」であり、あとは人間の心理に根ざした時間芸術の「構成法」の3つだと思っております。「記譜法」とは演奏者に向けての設計図の書き方です。「楽器法」とは自然界の物理をベースにした科学の領域です。「構成法」とは様々な時間芸術から経験的に抽出された時間的な形態です。
ⅴ. 記譜法
最初の作曲の勉強とはつまり、自作を作り続けて楽譜を書く経験を積むことです。音符を書き記すことを嫌がっているようでは書記する作曲家の資格はありません。音楽は他の芸術と少し違うのは、再現芸術だという事です。楽譜の段階ではまだ音楽ではありません。作曲者が書いたものを演奏者が弾いてはじめて音楽になるものです。その意味で一番近い芸術はお芝居です。作家の台本を元に役者が演技するのです。お料理にはレシピが介在します。空間芸術ですが設計図が必要な建築も同様です。絵画のように直接的な表現では無くて、楽譜という設計図を介した表現となるのが特徴です。楽譜にはとても重要な伝達者としての役割があるのです。本物のレオナルドの筆によるモナリザは仏蘭西のルーブル美術館まで出向かないと鑑賞出来ませんが、楽譜と楽器と弾き手が在れば、本物のアマデウスやショパンを目の前で鑑賞する事は地球の何処に居てもどんな時代でも難しいことではありません。これが楽譜の凄い役割です。
それゆえに表現したい内容を正確に記譜することの訓練は演奏の訓練と同じく大切です。楽譜とは、作曲家の民族や伝統が異なっていてもある程度までは正確に音楽を伝達出来る設計図になっていますので、中央のドの音符が書いてあれば、世界中でほぼ260ヘルツの高さの音を出してくれるはずです。テンポが♪=60でしたら確実に1拍分で1秒の速度で演奏されます。このような世界共通の設計図が数百年も使われているのでした。
書法にも様々なスタイルがあるものです。初心者にとって、いきなりですと、雲をむような感覚に襲われて自信を失いかねません。自分のスタイルをつかむ迄色々と書いてみる試みは大切です。まずは様々な印刷された楽譜を観察することが大切です。類似した音響として響いていても、ロマン派とされるシューベルト、シューマン、メンデルスゾーンや、印象派とされるフォーレ、ドビュッシー、ラヴェルなど同じ民族で同時期の作家でも、微妙に書き方が違うものです。
好きな作家の書法を参考にするのは無駄ではありません。むしろ自分のスタイルの出発点として、いい切っ掛けになるはずです。その楽譜を大切にしましょう。それぞれの作家に書法の特徴があるものです。ダイナミックの選び方や、アクセントの付け方、使われる楽語の癖、何語を使うのか、フレージング、演奏法の指示法、声部の扱いなど。
まず、音楽の内容もさる事ながら、書法「書き方」についての姿を焼きつけ、何処まで自作がその書法に迫る事が出来るのかを試してみる事をお勧めします。音楽は聴覚の芸術ですが、不思議な事に「書く」という書記の作業からの影響が想像以上に大きい事を忘れてはなりません。
また、そっくり写経のようにスコアを写してみることも無駄ではありません。一度でも試みてみること。それが大切なのでした。オーケストラのスコアを写す作業にはもう一つ、「楽器の量的な配分を見極める」という重要な経験が隠されているものでした。市販の印刷のスコアは機能している楽器の部分しか表示されていない場合がありますので。休止している小節にあたる五線を省略しないスコアの写譜には意味があります。学生時代にはしておきたい作業です。小品でいいと思います。リムスキーの《スペイン奇想曲》などは手頃で、昔はロシアの作曲の初心者の学習課題になっていたそうです。チャイコフスキーのバレエの小品などもいいと思います。
古典派の楽譜を勉強よりは、後期ロマン派から印象派以降の楽譜が綿密で良いのかも知れません。好きな作家の楽譜が理想的です。
記譜法(楽典)ですが、実は厳密な楽典を知らない音楽家は多いはずです。驚く事に日本には基準になる厳格な楽典の書籍が残念なことに未だありません。明治時代の洋楽導入の初期に誤読で翻訳された部分もあるものです。一番厳格な楽典の書物としてはガードナー・リード(Gerdner Read)の『ミュージック・ノーテーション』(邦訳無し)があります。ハンドライティング(手稿)について、今のコンピューターの時代ではあまり重要視されませんが、大切です。ハンドライティングのテキストは日本には良書がありません。これについてもやはりリードの本を御覧下さい。大学の図書館ですと在るはずですし、今ですとネットでも版変わりの新本を見つけられるはずです。
ハンドライティングは印刷譜とはちがったプロの書き方だと思って下さい。4分休符など、印刷されたように書いておりますと、時間が掛かってちょっと不細工になります。ストラヴィンスキーやプロコフィエフ、ドビュッシー、ファリャなどの手稿が勉強になるかも知れません。機会がありましたら探し出してみて下さい。いずれも能筆な作家たちですから。くれぐれもベートーヴェン先生の真似だけはしないこと。今日でも楽譜の新訂がされることは吃驚です。
勿論楽譜が汚いから悪作だということにはなりませんが、楽譜を丁寧に書く事は近代以降少なくとも演奏家や下請けの作業をされる方々への礼節でもあるのでした。誤読の原因にもなります。誤読の訂正作業は限られたリハーサルの時間を失ってしまう恐れがあります。その損失は甚大であることは経験者のみが知る事です。ベルリオーズは《レクイエム》の初演でパート譜を素人に任せて痛い目に遭いました。これはベルリオーズの楽譜が汚かったのではなくて、パート譜が酷かった例です。
基本的に、読みたく無くなるような楽譜は損でした。作曲家の身だしなみの一つだと思っております。
筆記用具については、使い易いものを使うのがベストですが、小生は基本的には浄書は鉛筆です。2ミリの芯ホルダーです。訂正が簡単です。研ぎ方に特徴がありますが、芯研機というヤスリのついた道具がありますが、それで、2ミリの芯を楔状に削るのでした。左右に数往復でその形状になるものでした。削った面を上にして、そのエッジをつかいまして、音符のステム(棒)とボウル(玉)を書き分けて行くのでした。この用具だけで、ちょっとしたカリグラフィも可能なので、ローマ字も体裁よく書けるのです。他には、製図用の細いペンを使う作家もいます。クラシックな方では万年筆や付けペンで優雅に書くのも面白いです。Gペンですと上手く行きませんので、1.5から2ミリのカリグラフィ用のペンですとインクの持ちも良いのでした。ただ、訂正する時はナイフで削らなければなりません。その意味で厚さのある良い5線紙が必要です。
最後はコンピューターでの出力です。今日では圧倒的に使われております。様々なソフトウェアーがあります。音にして再現もしてくれますので、間違いを見つけることが早く成りましたし、パート譜まで早く作れますので、経済的な意味でも助かります。しかし、これも手書きでの約束を知らないと不様な楽譜になることもありますので、フォントの選択や、アクセントの位置、ビーム(連桁)の傾きなど、自動配置をあてにせず、くれぐれも正確にと願うものでした。その昔のエングレービング(彫刻)やスタンプ、楽譜タイプライターや烏口を使って版下を作った時代からすると今は夢のような時代かもしれません。
ⅵ. 楽器法
楽器法については、管弦楽個々の性能を知っておく事が第一です。次は多彩な楽器による共同効果と、物理的に生じる音響現象、聴覚の錯覚や謎に満ちた音響心理、音楽心理。特に隠蔽について学習為さって下さい。オーケストラとはひとつの楽器であり、ひとつの生き物ですので。その生理を知っておくことが大切です。オーケストラというのは沢山楽器があって何でも出来そうですが、実はできる事が非常に少ない媒体なのでした。ピアノよりも表現できる音程の幅は狭いにもかかわらず、ピアノよりも壮大な音響の印象を残す事が出来る謎の媒体それがオーケストラでした。
隠蔽については、2つの音があって、一つをどんどん強くして行けば、もう一つが聞こえなくなる現象を云います。当たり前と言えば当たりまえですが、複雑な音響にあってこの災難に遭う場合もあるのでした。コントラバスが鳴っている時のフルートの最低音からの5度はコントラバスの倍音に隠蔽されて機能しないとか、枚挙に遑がありません。全奏(Tutti)の時に露呈してしまうことが一番困る現象です。これは『完本管絃楽法』(伊福部 昭著/音楽之友社刊)を参考に為さって下さい。物理現象から音楽は逃れる事が出来ません。あとは、もうひとつ音響心理という人間と物理との関係領域があります。これも管絃楽法を参考に為さって下さい。面白い発見が山程記されております。音を巡る人間の心理の不思議に数多く出会う事となるでしょう。ここで多くは触れません。
以下続