第4回 独立 ~スタジオミュージシャンの世界へ~

日本テレビ「夜のプリズム」

 

 松村さんの「クリプトガム」が初演された頃、日本テレビで「夜のプリズム」という名前が付いた時間枠が始まって、その中で毎週違うドラマや記録映画が放送されるようになったんです。時には1クール13回の続き物のドラマをやったりもしてましたね。

 「夜のプリズム」で放送するドラマや記録映画が替わるごとに、その音楽担当者も毎回替わったんだけど、その音楽担当者っていうのが当時、純音楽の世界でも立派に活躍されていた現代作曲家の方達なんですよ。そうすると、みんなクラヴィオリンに興味があるから劇伴の楽器編成の中にクラヴィオリンを入れるんだね(笑)。それで、もう縁が切れたと思っていたのに、また僕が呼ばれるということになる。幸い「クリプトガム」みたいに難しくなくて何とか弾きましたけどね。

 そんな風にして「夜のプリズム」でお会いしたのが、池野成さん、奥村一さん、原田甫さん、眞鍋理一郎さん達なんだよね。だから僕の場合、順番としては伊福部昭先生より先に伊福部門下の方々にお会いしているんですよ。

 

 

初めての映画音楽録音

 

 それからその頃、映画音楽の仕事を初めて京都の東映でやったんだよね。

 どうして京都かというと、田端さんが映画の撮影で京都の撮影所に行くことがあって、その時バンドも一緒について行って、撮影が一段落した後に京都の劇場で公演をしたんですよ。

 そうしたらそれを、昔、田端さんのところでアコーディオンを弾いたりしてバンドマスターをやってた作曲家の小沢秀夫さんという人が知って、バンドの中にクラヴィオリンが有るっていうことがわかったんだね。

 当時、東映京都の軽い感じの映画の音楽を小沢さんが相当な数作曲していたんですよ。それで、小沢さんと田端さんとの繋がりから「あのクラヴィオリンを弾いている人を呼んでくれ」っていうことになって、小沢さんの映画音楽の録音に行くことになったんです。

 行ってみたらオーケストラが関西交響楽団の大編成。それが夜中の12時に来るんだね。つまり演奏会が終わった後に来るわけ。こっちも昼間は田端さんの公演が有るから、そういう時間に録音が始まるっていうこともあって行けたわけだよね。

 録音の間、こっちは初めてで緊張して硬くなってたんだけど、オーケストラのメンバーは演奏会が終わった後で疲れてるし、映画音楽録音のギャラっていっても、ちょっと手当てが付くぐらいのものだから、なんだかみんな“もう、どうでもいいや”って感じなんだよね(笑)。

 その音楽録りをした映画のタイトルは今思い出せないんだけど、たしか録音中に映写されていた画面に、大友柳太朗が出てた気がするんだけどね。いずれにしても時代劇であることは間違いないですよ。

 それが、初めてやった映画音楽の仕事でしたね。

 

 

“お金を払わない男”との遭遇

 

 そういうことをしたりして、引き続き田端さんの事務所に居たんだけど、事務所にいると電話がかかってきて、また「クラヴィオリンが必要だから来て欲しい」っていう依頼が来るんだよね。場合によっては「いや、今、田端さんのこういう仕事が有って行けません」って断ることもあるんだけど、何しろクラヴィオリンの需要が多くてそういう依頼が引っ切り無しに来るから、そのうち何回か行くことになるでしょ。そうすると、コロムビアレコードに行き、ビクターに行き、キングレコードに行き、っていうことになって、“あそこのクラヴィオリン奏者は録音もなんとかいけるぞ”っていうことが各レコード会社に知れ渡っちゃう。

 その頃の面白い話が有ってね。

 当時、京都に「C」という名前の旅館があって、そこの女将さんがやってた飲み屋が西銀座に有ったんだよね。僕はそんなに飲まなかったんだけど、一度お茶漬けか何かを食べに行ったことがあるんですよ。

 それで店の中に入ったら、一人の男の人がお酒飲んでるんだよね。女将さんに聞いたら「もう年中ここで飲んでて、全然お金を払わない男」だって言うわけ。

 そしたら、どうやら女将さんが、僕がクラヴィオリンを弾くっていうことを話したらしくて、その“お金を払わない男”が「あんた、何か変わった楽器弾けるんだって?」って話しかけて来て、こっちも「ええ、ちょっと弾きます」なんて返事したら、「じゃあ、明後日、コロムビアのスタジオに来てちょうだい」って言うんだね。その時、たまたまスケジュールが空いてたもんだから「はい、わかりました。でも、何て言ってスタジオに入ればいいんでしょう」って聞いたら、「“F”に言われたから来た、って言えばいい」ってその男の人、すごく有名な作曲家のF氏だったの(笑)。

 ちょうどあの頃、作品が大ヒットした後でかなり派振りも良くなって、よくそこに飲みに来てたんだね。

 それでクラヴィオリンを持って録音に行ったんだけど、何の曲だったかも今覚えてないんだよね(笑)。それ以降、F氏とは何度かお会いしてはいるんだけど、それが最初で最後のF氏とのお仕事でしたね。

 

 

独立へ

 

 そうしているうちに、だんだんと外からの頼まれ仕事の方が多くなってきて、結局、外の仕事をやっている間に田端さんのバンドで演奏しているみたいな変なことになって来ちゃってね。

 それでまた、外からの仕事だけでも十分儲かっちゃうんだよね(笑)。

 それで、旅公演が始まると僕だけ外からの仕事をやらなくちゃいけないから残って、他のバンドのみんなは旅に出ちゃって、事務所に僕以外、誰もいないということになってね。でも、その頃から旅公演自体がだんだんと減ってきてはいたんですよね。

 そういうことも含めて、いつまでもこのままの状態じゃいけないから、まず最初に外からの仕事の収入だけでも最低限これだけの生活が出来るということを確認した上で、独立することを考えたわけです。

 独立するにもまず楽器がなくちゃ独立のしようがないから、田端さんのバンドで持ってたクラヴィオリンを、もともとの値段は25万円だったんだけど、それを15万円で買い取ったんです。

 その頃は「かけそば1杯30円」の時代だから15万円というのは大変な額なんだよね。でも、当時僕も若いし、毎日のように身銭が入ってきてたから、へっちゃらだったね(笑)。

 それで、田端さんのところを辞めたわけです。専属で居たのは結局3年ぐらいだったと思いますね。

 それでも、独立した後も歌のレコーディングとなると、田端さんが僕を呼んでくれって言ってくれてね。歌のバックのメロディラインが聞こえてないと不安らしくて、そういう時には行ったりしてましたよね。

 独立してからは、正式なエージェントっていうものがいないわけですからね。直接、各会社と交渉して仕事を決めていったり、それか「クラヴィオリンならこういう人がいますよ」って各会社に紹介してくれる、所謂“口入れ屋”みたいな人がいるんだよね。そういう人に頼むと、しばらくしてから何日の何時にどこそこへ行くようにって連絡が来て、それで録音に行くということになるわけです。

 独立後はスタジオでの仕事や映画音楽の録音の仕事ばっかりになりましたね。

 昭和30年代にはクラヴィオリンもかなりいろんなスタジオに置いて有って、しばらくはそういうのを使ってやったりしていたんだけど、楽器が古くなってダメになるのと、個人でクラヴィオリンを持ってた人が、みんな流行りの興味本位で買って、自分の本来の演奏楽器じゃないもんだから、ちょっと機械が壊れたりするとほったらかしにしちゃうんだね。

 それで、クラヴィオリンを扱う人がだんだんといなくなってきて、結局、最後には僕しかいなくなっちゃったんだよね。だから、ある時期からクラヴィオリンの曲は全て僕が弾く、ということになって、それが大変だったわけですよね。

 スタジオミュージシャン仲間からは「小島=クラヴィオリン」だから“コジクラさん”って呼ばれてますよ(笑)。

 

 

「眼の壁」

 

 独立して最初にやった映画の仕事が「眼の壁」(1958年松竹/監督 大庭秀雄)で、作曲は池田正義さんでしたね。

 当時、ペレス・プラードが作曲した「ヴードゥー組曲」っていう曲が流行っててね。なんかちょっと呪術的なラテンの音楽なんだけど、それによく似た節をクラヴィオリンでやりましたね。

 「眼の壁」というのは松本清張もののスリラーだから、「ヴードゥー組曲」みたいな感じの曲をクラヴィオリンの音色でやると、もうぴったりなんだよね。それなもんだから、ほとんど全曲にクラヴィオリンが入ってて、録音の時はこき使われたね(笑)。今でもビデオで時々見ることがあるんだけど、ちょっとクラヴィオリンやり過ぎなんじゃないかなあ(笑)。

 それでも、「眼の壁」の仕事をやった時に「ああ、映画音楽っていうのも良いもんだなあ」と感じたことは、はっきり覚えてますよ。

 その時、ちょうど僕は婚約中で、彼女が音楽の録音風景が見たい、ってことで松竹大船の撮影所にある録音スタジオに見に来てたんだけど、当時の大船の録音スタジオは、床っていうものが無くて下はもう土なんだよね。そんなのであまりに汚いもんだからびっくりしてましたよね(笑)。

 

 

電子鍵盤楽器奏者へ

 

 そのうちに、1960年代の初めに「エレクトーン」、しばらく経って「コンボオルガン」という楽器が世に出て来たんですよ。

 そうすると、クラヴィオリンを持ってスタジオ回ってると、仕事を依頼する方としては、“あいつはクラヴィオリン以外にも他に電子楽器がやれるんじゃないか”と思うわけだよね。

 それに、エレクトーン、コンボオルガンっていうのは、何となくオルガンの様であり、そうでない様な楽器で、こっちはもともとオルガン弾いてたわけだから、これなら何とか商売になるんじゃないか、ということもあって、それじゃあ、自分は電子鍵盤楽器を扱うスタジオミュージシャンとしてやっていこう、という考えになったんです。

 演奏にしてもエレクトーンやコンボオルガンは、特殊な使い方して独特な音を出すとか、歌謡曲だったらメロディラインを弾くとか、そういうことがほとんどだからね。

 エレクトーンが出て来た後っていうのは随分エレクトーンをやりましたよ。

 エレクトーンが世の中に出回って、購入したすぐぐらいに伊福部先生のゴジラ映画の録音やったもんね。

 コンボオルガンというのは、簡単に言っちゃえば特殊な機能が幾つか付いてて、持ち運びが出来るエレクトーンのことなんだよね。

 最初に購入したコンボオルガンはYAMAHAのYC-30という機種で、これで1960、70年代の劇伴を相当やってます。YC-30はその後YC-45という新しい機種に買い換える時に、人にあげちゃったんだよね。

 それ以降、コンボオルガンは全部YC-45を使ってやってました。平成の時代になってから伊福部先生が音楽担当されたゴジラ映画で使ったコンボオルガンも全部YC-45だよね。

 ただ、最後の「ゴジラvsデストロイア」(1995年東宝/監督 大河原孝夫)の録音が終わって、何年か経った頃からYC-45の調子が良くなくてね。今、倉庫に仕舞い込んであるのと、機械の重さが60kgもあって簡単に運び出せないのとで、お見せ出来ないのが残念ですね。

 

 

▲コンボオルガン「YAMAHA YC-45」(以上写真5点撮影:大塩一志)

上記インタビューの通り、コンボオルガン「YC-45」は現在撮影が困難な状態ですが、

この度、かつてCD「東宝特撮映画選集5 海底軍艦」(東芝EMI ユーメックスTYCY-5502)

解説書内掲載インタビュー「オルガンサウンドの魔術師 小島策朗」を取材・執筆されました

大塩一志様より、今回の一連のインタビューに対し御理解を頂き、1996年取材当時の

「YC-45」写真(解説書未掲載)の使用・掲載の御快諾を頂くことが出来ましたので、併せてここに掲載致します。

 

 

“奇跡のシンセサイザー”「KORG 800DV」

 

 エレクトーン、コンボオルガンの後に、シンセサイザーが世に出て来て、すぐの頃に「京王技研」(KORG)から出た、本当にお粗末な小さなやつで単音しか出ないんだけど、それらしい音がする最初のシンセサイザーを買いましたね。

 それから「Roland」のものも良いとか、なんだかんだと結局これまで延べ10台ぐらいシンセサイザーは買ってるんだよね。それでも、今残ってるのは「Roland」と「京王技研」のが1台づつと、あとYAMAHAの「DX7」というやつで、「DX7」は今でも弾いてちゃんと商売になってますよ。

 今も残ってる「京王技研」のシンセサイザーは「KORG 800DV」っていうやつで、まだシンセサイザーが単音しか出せない時代に、ツーボイス同時に出せて、さらにその音を上下に分けて微妙な調節が出来るっていうんで当時“奇跡のシンセサイザー”って言われたんだよね。

 今は全然需要が無いから使うことなんて無いんだけど、「KORG 800DV」には松村禎三さんとの仕事で思い出があるんだよね(笑)。

 

▲今はまず表に出さないという“奇跡のシンセサイザー”「KORG 800DV」。

御厚意によりクラヴィオリンに引き続き、取材のためにセッティングしてくださいました。

 

▲愛用のドイツ・ゼンハイザー社製ヘッドファン

 耳を密閉しちゃうヘッドフォンは、絶対に耳を悪くして難聴になっちゃうからね。この外の音も聴こえるかたちのゼンハイザーのヘッドフォンを、プライベートでも、仕事でスタジオに行く時にでも、常に持って行って使ってます。

 黄色いスポンジの耳あての部分を交換しながら、本当にもう30年以上使ってるよね。